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[コラム] 01.31.2007

なぜキリストは磔刑に処せられたのか [2/2]
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 もともと中世の思想家達にとってキリストは最大の謎でした。神を全知全能の超越者として前提・仮定した場合、有限者である私達人類と同様の姿で現れるキリストは神なのか、人なのか、理解できなくなるためです。キリストの人性をどのように解釈するかが、その後のキリスト教運営に大きく関わるものだったのです。神とキリストを無矛盾に接続・結合できる論説を創らなければ、彼をキリスト教を代表するイメージ・キャラクターの座に据えることはできません。

 そこで様々な説が立てられました。たとえば初期の単純理解で最も良く知られながらも筆頭異端として排撃されたものに『アレイオス主義』があります。それは三一性を意志と性向の結合、道徳的結合と楽観することによって、子(キリスト)は父(神)からの唯一の直接的被造物であり、その他の万物は子から被造物であると定義付けるものです。質的飛躍の局面を道徳とする説は人の哲学としては理解しやすく、また妥当なもののように思えるかもしれませんが、神学としては満足いくものではありません。なぜなら唯一直接的という断りがあろうと、子の発生に構造的プロセス記述を認めてしまうと、神が存在しなかった場面が過去にあったことを主張してしまうためです。他説にはモナルキアニズム(神の単一支配)として養子説や天父受難論(サベリオス主義)などといったものがあります。前者は神から力(デュナミス)を受け、人間イエスが神の養子となるものであり、構造化の後にシステムは去ってしまうような説です。後者は三一性を否定した父子聖霊同一を謳う説になります。しかしどれもキリスト構造を超構造化することができず、数えきれないほどの主義主張の乱立が続くことになりました。

 現代に生きる私達から見れば、新プラトン主義的な流出説を応用すればと歯痒く思ってしまいそうですが、上述の論点を正しく見極めれば、単一の方向性では不十分であることが分かります。つまりキリスト教思想はキリストを脱物語化し、神秘主義的な存在性の変位に頼ることなく、双方向の無限性を民衆へ向けて開口するように論を組み立てる必要があったのです。そしてここに十字架の意味・理由があります。

 まず構造体はシステム内属を証明しているわけではないので、キリストを完全性へと定着させる必要があります。神の概念的な完全性を代表させるために、横木と縦木による座標軸にキリストをはめ込み、釘や槍で彼を串刺すことによってZ軸を与え、完全性を完全化する球体を指し示すオブジェとして十字架は作られたと考えます。それは二本ではなく三本の実線によって構成される必要があり、磔刑とはシステムと構造が浸透化している観察可能体を作り出すための手段だったのです。十字架の上でキリストが腐敗し、その体が消え去ったとしても、確実に残るであろう十字架と釘によって完全性を絶対化するとともに可視化され、キリストは「死」といった構造的瓦解によって神の証明をさせられたのです。ですから十字架物語でもっとも重要な場面とは『十字架降架』にあるといえます。

 しかしまだこれだけではその理由としては不十分です。なぜならそれがオブジェとして顕在したとしても、存在の位格を定義し、確かな触覚対象としなければ『民衆へ向けて開口』しないためです。つまり十字架状に釘付けにされたキリストをエルサレムの城壁外にある「ゴルゴダの丘」に突き刺さなければならなかったのです。民衆が生きる同じ大地に施工することによって、同一地(面)をキリスト教は作り出すことに成功し、超越者を有限者へ向けて超越・延長させ、信仰遂行性の約束を確実のものへと昇華せしめたのです。

 仮に正しい十字架というものがあるのなら、キリスト像と釘と大地は不可欠であり、それらが必要にして十分な十字架の条件・エレメントといえるでしょう。敬虔なキリスト教徒が今も十字を切る時、最後に胸の中心で合わせる手と跪く姿は釘と地を表していると考えます。

 

 次回は「ゴルゴダの丘」が代表した地(面)の形而上学的意義について体験してみたいと思います。

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2007年1月31日
ayanori [高岡 礼典]