芸術性理論研究室
Metaforce Iconoclasm
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[コラム] 01.31.2007

なぜキリストは磔刑に処せられたのか [1/2]
ayanori [高岡 礼典]
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 未だにキリスト教は不可視を可視化する偽技術の宝庫です。新しさを追い求めるあまり、訓詁学に終始してしまう学術や、批判材料になりえない代物を作り上げてしまう演出家にくらべれば、過去の聖職者達はどんなアーティストであろうと刃向かえないほどに「表現の意味」を理解していました。神話制作から始まり、それを利用して偽文の流布。五感を撹乱するイコン・香り・音楽・儀式といったミクストメディア。ヘレニズムを導入しての論理による神の存在証明。それらは部分的にならば他の宗教にも同例はあるのですが、キリスト教が圧倒的に優位にたつ理由は「十字架」の発明によるものです。それは覚えやすく真似しやすいからだけではなく、その単純形体が壮大な思想原理を指示しているためです。つくり出されたものを作者へ還元できない場合、私達はそれを作品とは呼びません。原則的に偶像製作を禁止していたキリスト教は伝達不可能性や不可能であるが故のコミュニケーション・リテラシーをよく心得ていたので、安易な制作物を遺すことなく、エレメント間の関係性が必ず意味内容を示し、現象化できるように構成・配置されています。ここで「十字架の理論」を学び、デザイナーとしか呼べない現代の芸術家達へ構成原理の反省を促したいと思います。従ってこのコラムの正しいタイトルは『なぜキリストは十字架状に釘付けにされたのか』になります。それは聖典に法った寓意画を描く必要がなくなり、真の芸術家へ望めば叶う現代の美術家にこそ必須の知識です。以下にそれを論じます。

 

 ファンダメンタリスティックなプロテスタントの十字架が二本の線を交叉しただけの十字架であるのに対し、論理をも重んじるカトリックのそれには、ほぼ必ずキリストらしき像が釘付けになっています。イコノクラズムを潜在させるプロテスタントの態度には理解しやすいものがありますが、理神論的なニヒリズムを含意しかけないカトリックのそれは過剰な演出による矛盾・蛇足のように思えます。しかしキリスト教思想を制作原理とした場合、十字架からキリストを捨象することはできません。

 十字架はアルマ・クリスティ(キリストの武器)のひとつとして数えられるように、死に対する勝利による贖罪論の象徴として知られています。それによってレギュレート・ツールとしての機能を発揮しているかのように教科書は伝えます。しかし当研究室はこの一般説の大部分を斥けたいと考えます。死の超越や購いの代換メディアとしてならば、わざわざ横木を用意しなければならないような手間のかかる「野蛮な」刑に処する必要などありませんし、釘付けによって執行人の手を血で汚すこともないでしょう。一本の木にくくり付ければ済むことです。十字架の意味は「ローマ軍が」ではなく『なぜキリスト教はキリストを磔にしたのか』と問わなければ、表れ出ないものなのです。

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