<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>血流知覚への憧憬 [2/2]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../index.html>HOME</a>]<br>&or;<!--#include file="./2007.txt" --><br>[コラム] 02.14.2008</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3 color=#12123d>血流知覚への憧憬 [2/2]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</font></div><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=021408.html> 1 </a>：2 】</font></div><font color=#12123d><p>　心臓を動力的中心としつつも、途切れることなく連続して延長構造を形成し、その内側を隙間なく血液が満たし、流れいく蠢きは、神経系の自律性とは意味を異にします。仮に後者を自体的に知覚・認識できたとしても、部分／全体を有意味に概念図式化するには、困難な技になるので、無機的なデッサンになるはずです。神経系の部分知覚は、部分が全体を含むように与件を構成するので、関係の関係が描きにくく、パースペクティブが狂ってしまうことでしょう。しかし血流知覚の場合は、血液という連続者の関与によって、指先の蠢きがつま先を蠢かせ、唇の火照りが生殖器を火照らせ、狂いなきボリュームを確定記述してくれます。全てが繋がっていることによる全体理解は、擬似的な全体を不必要にして、相補的な部分理解を可能にし、かつ、自己を対象化するのです。</p><p>　表面だけではなく、超視野的な内部までをも認識対象とする血流知覚者は、理解しているものが調子悪くなったにすぎないので、内科的な病も形成外科的な覚悟のもとに判断が可能となり、病によって改定される項目が少ないので、さほどの驚きもなく通院するでしょうし、自己を忘れることなく常に理解している状態にあるので、背後からの不意の悪戯にも、二重肯定程度の衝撃しか感じ取らないことが期待できます。</p><p>　畏れとは現在形で不可知の域(未知)に従属せざるをえない何かが潜んでいると無根拠に思い込む恐怖の亜種です。近代までは自然災害の恐怖に畏れを感じ、神的な絶対概念を夢見てきましたが、技術によって多少は制御・回避できるようになった現代人は免れきれない残滓とて自己のみを手にしていることでしょう。(法)社会で生きる私達は反知や太平楽で逃避することができたとしても、一時的な猶予にしかならず、誰もが少なからず、自己という病におかされているはずです。</p><p>　もしも人類が血流知覚レベルで、自己知へ至れるのならば、技術と認識の共働で、世界からあらゆる苦を抹消することが可能になるかもしれません。</p><p>&nbsp;</p><p>　このコラムに応用的な結文はありません。これを積極的なアイディアにするか、乗り越えるべき批判素材にするかは、野心と才能を兼ね備えたアーティスト達へ委ねます。</p></font><font size=1><p align=center>【 頁：<a href=021408.html> 1 </a>：2 】</p><div align=right>2008年2月14日<br>ayanori [高岡 礼典]</div><!--#include file="./footer.txt" --></body></html>