<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>反目的論的な感覚情報について [2/2]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../index.html>HOME</a>]<br>&or;<!--#include file="./2006.txt" --><br>[コラム] 03.28.2007</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3 color=#12123d>反目的論的な感覚情報について [2/2]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</font></div><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=032807.html> 1 </a>：2 】</font></div><font color=#12123d><p>　そこで音量を最大に設定してヘッドホンを装着し、音楽再生のボタンを押してみます。静かな住宅街にあるような家屋の自室でそのようなことを突然に試みたなら、多くの方々が『うるさく』感じ、ボリュームを下げることでしょう。爆音を愛好する方であろうとも、難聴でない限りは、何らかの情動変化があるはずです。その逆に交通量の多い市街地や電車の中では部屋で聞いている程度の音量では物足りなく感じてしまいます。聴覚は環境との相対的な関係によって、その中心軸を自由に変えることができるものなのですが、どのような状況下におかれようとも「騒音批判」を免れることができません。本来、聴覚情報は純粋な環境知のはずであり、音は直接的に生死に関係ないもののはずです。にもかかわらず私達は「騒音」などといった価値コードを立ち上げてしまいます。音の強度によって身体構造や細胞組織が圧殺される理由を見出せたとしても、その尺度は不必要なまでに低く設定されすぎているように思えます。この局面を自然災害音などからくる進化論的な音のホメオスタシスとして反論するのならば、愛好する音楽家の曲をPA最大で聴かせられる際の、それでも纏つく『苦痛』の所以を説明する必要があるはずです。</p><p>&nbsp;</p><p>　さらに私達の感覚情報が認識論も存在論も超える自律的で反目的論な創造系であることを示す決定的な傍証が触覚の中に潜んでいます。それが『くすぐったい』という感覚です。神経系が集中している首筋や足の付根のような、普段あまり積極的に情報収集のために使用していない箇所へ蠕動的な刺激をやさしく与えれば、くすぐったく感じ、笑い出してしまいます。『くすぐったい』は明らかに不快感であるにもかかわらず、笑いという比較的肯定的な表現に対応しています。『くすぐったい』が生死に関係しているのならば、「笑う」必要などないことでしょうし、そもそもの初めから『くすぐったい』といった感覚内容は『皮膚の上で何かが蠢いている』と思う程度でよく、特化する理由などないものです。笑いは古来より無秩序認識の表現とその浄化回復の担体であるかのように論述されてきました。しかし「くすぐり」による笑いは苦笑でも嘲笑めいてもなく、喜劇的な素直な笑いであり、不快とは反目する矛盾表現になります。このパラドクスは『くすぐったい』からさらに理由を遠ざけてしまいます。なぜ『くすぐったい』と感じてしまうのでしょうか。なぜ不快感を嬉々として笑わなければならないのでしょうか。ここに新しいアイディアを必要とする未開拓な余剰域があります。</p></font><font size=1><p align=center>【 頁：<a href=032807.html> 1 </a>：2 】</p><div align=right>2007年3月28日<br>ayanori [高岡 礼典]</div><!--#include file="./footer.txt" --></body></html>