<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>意志と行為 [2/2]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../index.html>HOME</a>]<br>&or;<!--#include file="./2006.txt" --><br>[コラム] 04.16.2006</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3 color=#12123d>意志と行為 [2/2]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</font></div><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=041606.html> 1 </a>：2 】</font></div><font color=#12123d><p>　上述のように私達が社会形式に賛同し参加しようと試みる際に意志と行為を同義的に扱うことによって、自己を社会空間へと現前化(プレゼンテーション)しなければならない思想的な当為理由があるのですが、またそれによって「他者」を正しく素描できなくなる理由もあります。「意志と行為が連動する」という命題は社会参加者の思想であって、原的な様相を言い当てているわけではありません。意志と行為はシノニムでもなく、アントニムでもないものであり、カテゴリーを異にする乖離的な関係であるといった素朴な確認をここで論理的にではなく、体験してみたいと思います。</p><font color=#1E0077><p>1：今まさにマウスを握る自身の利き手に注目してみます。その利き手を操作する意志や力の全てを脱して微動させることなく暫く凝視してみます。ここでは操作可能なものに対して支配権を保留にしたまま関心をよせ続けるといったディレンマを感じて頂くことが重要になります。この段階で既に意志と行為の分化を知ることができます。</p><p>2：次にその利き手を1cmだけ任意の方向へ動かそうと思った後に動かしてみます。ここで運動の開始点と終止点を強く思うことにより意志による行為支配の原的様相を知ることができます。</p><p>3：「2」を数回繰り返した後に動かす意志を抱いたまま、再度動きを止めてみます。動かそうと強く思い続け、利き手が動き始める瞬間まで意志の強度を上げていきます。そして腕が動き始めようとした刹那に運動の意志もしくは運動のみを全部捨ててみます。その際に利き手が動くか動かないかは問題ではありません。</p></font><p>　「2」と「3」の体験を通して知らなければならない点は「1」によって分化された意志と行為が再会し相互浸透化する瞬間のシークエンス自体です。私達は日常当然のように腕や足を操作しようと思って様々な運動を行いますが、その間にある非対称的な複合性を経験できても理論的に一体何が起きているのか知ることができないといった詳述しがたいアポリアをこの体験によって確認することができると思います。</p><p>&nbsp;</p><p>　『意志が行為へと近づく時、相互に巻き込み巻き込まれつつも背反しあう得体の知れない質的飛躍は本来的に不可知であるが、既知のものとして扱わなければならない』私達が現在参加している社会形式で採択されているこの基本規範とは、暴力的な誤謬の強制でしかないのです。</p></font><font size=1><p align=center>【 頁：<a href=041606.html> 1 </a>：2 】</p><div align=right>2006年4月16日<br>ayanori [高岡 礼典]</div><!--#include file="./footer.txt" --></body></html>