<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>意志と行為 [1/2]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><strong>芸術性理論研究室<br><font size=3 color=#646f76>M<font color=#667077>e</font><font color=#677279>t</font><font color=#68757c>a</font><font color=#60777e>f</font><font color=#717b82>o</font><font color=#747e85>r</font><font color=#7a8389>c</font><font color=#80898f>e</font><font color=#889096> I</font><font color=#8e9698>c</font><font color=#959da1>o</font><font color=#9ea5a9>n</font><font color=#a7adb1>o</font><font color=#b0b6b9>c</font><font color=#b6bcbf>l</font><font color=#bdc2c5>a</font><font color=#c7c8ce>s</font><font color=#d6d9da>m</font></font></strong></div><div align=center><font size=1>[<a href=../index.html>HOME</a>]<br>&or;<!--#include file="./2006.txt" --><br>[コラム] 04.16.2006</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3 color=#12123d>意志と行為 [1/2]</font></div><div align=right><font color=#351923>ayanori [高岡 礼典]</font></strong><br><font size=1>─</font></div><div align=center><font size=1>【 頁：1：<a href=041606-2.htm> 2 </a> 】</font></div><font color=#12123d><p>　法社会を措定することによって不可解な他者を公的空間へ取り込んでいかなければならなくなった私達は常に意志は行為を制御する第一原理的なものとして要求されます。それに対抗すべく科学や思想が自由意志を反駁しようと様々な決定因子を作り出すのですが、いつも「社会形式」はそれらの声に対して特別に耳をかすこともなく、声が聞こえても聞こえなっかたフリをして平常を送っていきます。法規定による社会概念は普遍的に自己の意志を前提とするので決定操作される「自己なき個体」は包摂することができません。私達が自己ではないものに先行決定されたものだとする仮定は行為事実の全てから価値を排除してしまうので何が起ころうとも当然的に描いてしまうのです。これでは法をもうける理由が見出せなくなってしまいます。ですから「聞こえなっかたフリ」ではなく懐念可能な概念として初めから「聞くことができない」と述べなければならないのかもしれません。社会の構成要素の最小単位は「関係」になるので個的概念は社会形式にとって不問のことのように思われるかもしれませんが、関係が個を前提にしているので社会はいつも消極的に個人を必要とする明確な境界設定のある系なのです。</p><p>　しかしここで個を前提としているからといって一方向的な無償の愛のようなものまで社会的関係として数えられるわけではありません。他者への干渉は何らかの反応(応答)があって観察可能な事実(出来事)となり社会化されます。この一次社会(ダイアド)が第三者からの弾劾によって、無限批判可能性の道が開かれて公的社会の要素になるのですが、ここでは意志について論じたいのでそこまでは踏み込みません。</p><p>　被干渉者がそれを単なる物理現象と人からの作用とを区別するコードはそこに意志が『あるか／ないか』になるので干渉者は常に行為者のみに帰属(内属)する行為理由としての意図を要求されます。それは「散り逝く星々」や「襲いくる自然災害」に対して直接に理由を問うことがないように経験的に自明なことだと思います。自律性を見出せないものに対して社会的アプローチを返したら、それは妄想家です。</p><p>　ここに社会と個人が相互に環境へと配置される関係ではない論拠があります。両者は共に自身の系によって相手を描くことができないにもかかわらず、相互に相手を前提の必要項にしてしまうということは、それが単純な環境項ではないことを意味します。社会にとって環境に自然空間は不必要ですが個人が位置付けられないわけにはいきません。これは同様に逆も成立します。つまり超越者がいたとして、その者の眼に映る社会の構造は個人であり、個人の構造は社会ということになるのです。両者は相互に自身の系の第一周辺(構造)に相手を配置することによって自己を観察可能態にするのです。</p><p>　ここで一般的な社会システム論のような記述をしていない理由は当研究室の態度が科学ではなく哲学であることを確認して頂ければよいと思います。科学的なシステム論では個人を単語化した意味論を社会として描写するでしょうが、心的システムを探求の筆頭対象としている当研究室において、個人に文脈性を認めないわけにはいきません。そのため「個人の構造は社会である」という命題を成立させなければならないのです。</p><p>&gt;&gt;<a href=041606-2.htm>次頁へ進む</a></p></font><font size=1><div align=center>【 頁：1：<a href=041606-2.htm> 2 </a> 】</div><!--#include file="./footer.txt" --></body></html>