<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>潜在性の有効性 [2/2]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../index.html>HOME</a>]<br>&or;<!--#include file="./2006.txt" --><br>[コラム] 05.06.2006</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3 color=#12123d>潜在性の有効性 [2/2]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</font></div><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=050606.html> 1 </a>：2 】</font></div><font color=#12123d><p>　「やればできる」といった可能性の潜在といった動因概念はアリストテレスまで遡ることができるのですが、ここでそれが長く続いた誤読の歴史であることを確認したいと思います。これは『意志』の問題以上に私達を空想の世界へ誘った道化なのです。顕在の前段階としてシステムにその形象を与えるといった意味での潜在性が有効ならば、能力ある者に失敗はあり得ないことになります。「私は歩くことができる」と主張できる健常者が転ばない確証などどこにもありません。もしポテンシャリティーが行為を決定しているのならば、私達は転びながら歩いたり、文字を書きながら何も書かないような経験を可能にしてしまいます。ひとつの潜在力はそれを否定する含意の一切を排除するものではありません。可能性という段階は対立する項目が並存する超越的的なものであり、行為を基礎付けてなどいないのです。私達は行為におけるひとつのシークエンスで同カテゴリーのものを複数選択することができない有限の縮減者であることを忘れてはいけません。</p><p>&nbsp;</p><p>　ここで潜在的動因を批判することによって、行為至上的な主義を導出したように思われる方が居られるかもしれませんが、そこに帰結はありません。<a href=042306.html>前々回のコラム</a>で述べたように可能性も『意志』の問題と同様に行為を超えたものであり、「できた」から「できる」わけでも、「できる」からといって普遍的に「できた」を導くわけでもない素朴な事実を確認しておきたいに過ぎません。</p><p>　これは「我思う〜」でなく「我能う〜(メルロ=ポンティ)」でもない、積極的かつ端的な言及域の確保なのです。</p></font><font size=1><p align=center>【 頁：<a href=050606.html> 1 </a>：2 】</p><div align=right>2006年5月6日<br>ayanori [高岡 礼典]</div><!--#include file="./footer.txt" --></body></html>