<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>習慣について [2/2]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../index.html>HOME</a>]<br>&or;<!--#include file="./2007.txt" --><br>[コラム] 05.07.2007</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3 color=#12123d>習慣について [2/2]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</font></div><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=050707.html> 1 </a>：2 】</font></div><font color=#12123d><p>　そこで、どこからが習慣なのか考察するには哲学的な自己観察を吟味するだけで足りるように思えます。冒頭で示唆していた身体運動について確認してみましょう。とりあえず素足になり、利き足をじっくり観察します。足の指が五本ある方は恐らく一見では何の役に立っているのか分からない「小指」が頼りなげに生えていることでしょう<font size=1 color=#664444>(*)</font>。ここでハンマー等を用いて、この小指の骨を砕いてみます。最初は少し痛い程度だったものが、徐々に激痛へと変わってくることでしょう。薬指とともにテーピングを施し、数日間固定して冷やしておけば、自体的な痛みは治まるはずなのですが、それを幸いに思い、普段どおりに歩き始めると、声を失ってしまうかのような後悔が待っています。「たかが足の小指一本」の損傷で私達は日常的な歩行を不可能にしてしまい、身体運動の手順に関して、日頃の無自覚さを教えられることでしょう。足の運び方ですら、無知であることを知るはずです。</p><p><font size=1 color=#664444>(*)指の数が生まれつき六本以上五本未満といったケースは、それほど珍しいことではありません。ここでは一般性を考慮しつつ、研究材料である筆者の身体構造を例にとります。</font></p><p>　そして小指骨折の体験は「作られる習慣」について新たなラインを引いてくれます。この局面は医学的な自律原理による記述対象には含まれません。意図的に呼吸を止めることはできますが、心臓を一時停止することができないように、本来自律神経とは意志による他律性を一切受けないものを指します。もしも心臓に障害を負ってしまった場合、意志の制御は働き得ようがありません。しかし小指骨折は利き足を「かばう」ようにすれば、歩けないわけではありません。つまり歩き方の再構成ができるという理解によって、自律的運動の亜種であるかのように思える「歩行」を習慣的運動の範疇へと収めることができます。足は私達を歩かせるためにあるのではなく、『歩きたい』と思った者が歩行運動に都合のよいそれを利用しているに過ぎません。足がなければ匍匐すればよいだけです。</p><p>&nbsp;</p><p>　知性は無慈悲なまでに無造作・無差別に前理解である意味内容を創り出していきます。社会内存在から免れ得ない私達はそれらを固定化しなければならないのですが、理性はそれらを全て包含するにはあまりにも狭く設定されています。それは系でなければ理性と呼ばれないためなのですが、それ故に未知の既知化の捏造・改竄が急速し、無理解の知を拡大していきます。それが習慣であり、習慣とは露光済みのロウデーターを指します。</p><p>　これは誰もが知っているラディカリズムは、誰もが理解しているとは限らないことの初歩的な再確認です。</p></font><font size=1><p align=center>【 頁：<a href=050707.html> 1 </a>：2 】</p><div align=right>2007年5月7日<br>ayanori [高岡 礼典]</div><!--#include file="./footer.txt" --></body></html>