<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>読み書きについて [2/2]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../index.html>HOME</a>]<br>&or;<!--#include file="./2006.txt" --><br>[コラム] 06.15.2006</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3 color=#12123d>読み書きについて [2/2]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</font></div><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=061506.html> 1 </a>：2 】</font></div><font color=#12123d><p>　なぜなら形体を極端に抽象すれば、四角・三角・丸そして線・点となり、対象認識のカテゴリーはわずかな種類に収束してしまうためです。これが文脈ではなく数理的な関数で行っているのならば間違うことなく言い当てることができることでしょうが事実はそれに反しています。画学生がデッサンの初段階において精密な模写からではなく、クロッキーから始めるのは認識論的にも正当なやり方といえるでしょう。どんなに部分が当たっていても全体が外れていては不正解になってしまいます。</p><p>　上述の説明は漢字の読みにも当てはまることです。難しい漢字を書けなくても、それを読めてしまうのは有意味な文字としてではなく、形に内属されている否定しがたい構造的な文脈の単離剔出に成功しているためです。そしてそれは巨視的な範疇内にあるもののため、微視的営為である「書く」とは同じものではないことになります。</p><p>　文字を書くにはひとつずつエレメントを足していかなければならない制作的な知的行為になるので私達は「部分」を含むとは限らない「読み」ができたとしても書ける保証はないことになるのです。まさに行書や草書とはこの断裂を無効にするために設けられた苦肉の策といえるかもしれません。しかしそれも制約なき抽象が許される「読み」とは異なるので限度があることになります。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　私達の生活空間は『制作者』を知らない論述なき暴力的な判断に満ちています。まるで「読めるから書ける」「観たから私も創れる」とでも言わんばかりに。それによって自身の不才を慰めたいのでしょうか。『個人』を排除して統合原理へとでも役立てたいのでしょうか。</p><p>　不可視は可視を含みますが可視は不可視を含むとはいえません。観察と制作の区別が共通の了解として流布されなければ、いつか口火を切る者がいなくなり社会の系は停止してしまうことでしょう。</p></font><font size=1><p align=center>【 頁：<a href=061506.html> 1 </a>：2 】</p><div align=right>2006年6月15日<br>ayanori [高岡 礼典]</div><!--#include file="./footer.txt" --></body></html>