<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>脱移動の偽法 [2/2]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../index.html>HOME</a>]<br>&or;<!--#include file="./2007.txt" --><br>[コラム] 07.28.2007</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3 color=#12123d>脱移動の偽法 [2/2]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</font></div><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=072807.html> 1 </a>：2 】</font></div><font color=#12123d><p>　しかしながら、水中での体験はある条件を満たすと、触覚感覚特有の脱境界性を全体的に現象化します。愛撫や抱擁と同様に、なるべく摩擦のない平衡状態をつくればよいはずです。そこで浅瀬から深みへと進み、水中に浮いてみます。背泳ぎのフォームをとれば、いつまでも難なく浮き続けることができるでしょう。この際に視覚は超越への望みに反してしまうので、なるべくなら目は閉じたほうが良いと思います。浮き上がったばかりでは、地(面)のない状況にただ驚くばかりかもしれませんが、そのまま静かに浮遊し続けると、水温や水の肌理に平衡感を形成し始めます。地(面)のない状況とは自重を支えることからの解放を意味するので、まず被験者はボリューム的に自己内容を見失い、次に『指先』から『腕全体』を、『つま先』から『足全体』を、『背面』から『胴体／頭部』をシェーマ的に喪失してしまいます。これは単なる自己の超越による自／他の抹消ではなく、自己の意識を保持したままの自己の点化という認識しがたい現象を意味します。そのため被験者は恐怖に苛まれ、境界を取り戻そうとして、もがき、くねらせ、目を見開いてしまうかもしれません。</p><p>　筐体もボリュームもない被験者は、自己把持ができないため、目にうつる映像に対し、主客関係を構成することができず、茫然自失と見入るばかりかもしれませんが、ここで第二者にお願いして、静かに水流を起こしてもらい、水面を浮遊させてもらいます。移動しているのは紛れもなく「この私」であるにもかかわらず、自己位置のない被験者は流れていくかのように見える雲や星星に主体性を観てしまい、自己を脱移動化してしまうはずです。留意すべきは、点化を純粋に押し進めた自己の視点化は、観察的には受動態でありながら、自動詞の一切を概念的に喪失しているために、自己を絶対化してしまうという点です。そしてそれは超越者とは全能ではなく無能であることを意味しています。</p><p>　最後に被験者は完全なる自由は不自由であることを知るに至り、本当の自由を得ようとして、また不自由な大地へと戻っていくことでしょう。自らの足を用いて。</p></font><font size=1><p align=center>【 頁：<a href=072807.html> 1 </a>：2 】</p><div align=right>2007年7月28日<br>ayanori [高岡 礼典]</div><!--#include file="./footer.txt" --></body></html>