<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>予期について [2/2]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../index.html>HOME</a>]<br>&or;<!--#include file="./2007.txt" --><br>[コラム] 08.21.2007</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3 color=#12123d>予期について [2/2]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</font></div><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=082107.html> 1 </a>：2 】</font></div><font color=#12123d><p>　上述で確認した単純な例で分かるように、モティーフが具象であったとしても、また鑑賞の内包量が作家から切り離された鑑賞者固有のものであったとしても、何が描かれているかによって、可能性の増減・スティルの外延は大きく異なります。風景と機械の例で決定的に異なる点は、後者の枠外には図面が存在するということです。それ故に可能性の縮減率が高いというだけではなく、それ故に多数の者が再現性を与えることになり、作家の視点開示に成功し、伝達の普遍性に一歩近づいていきます。それに対して、図面のない風景は、どこまでも作家へと還元・秘匿されることになります。通俗的には前者に「分かりやすいが故のつまらない」があり、後者に「分からないが故の情緒」が待ち伏せしていることになり、作家達は表現内容・意図との兼ね合いを加え、その平衡点を模索していきます。それは理想的なスティルの外延「秘密の説明」といえます。</p><p>　私が前回のコラム「<a href=081307.html>鑑賞への偽法</a>」で前提としていたように、鑑賞者は「作家／作品」を知りたいがために、ライブへと足を運びます。しかし芸術作品と呼ばれるものの多くに造形的なパースペクティブがあっても、認識のパースペクティブは用意されていないように見受けられます。それでは鑑賞へ向かう第二場面が空虚になってしまい、更なる理解の深化である換言の第四場面へと至れません。</p><p>　このコラムで触れた予期は芸術至上を突破し、美術家という名称に甘んじることのない、本来的な表現へと臨むためには必須の項目になります。</p></font><font size=1><p align=center>【 頁：<a href=082107.html> 1 </a>：2 】</p><div align=right>2007年8月21日<br>ayanori [高岡 礼典]</div><!--#include file="./footer.txt" --></body></html>