芸術性理論研究室
Metaforce Iconoclasm
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[コラム] 09.03.2009

情壁
ayanori [高岡 礼典]

 人文・芸術は、どれだけ特殊をコレクションしていけるかに眼目があるため、研究・制作者達の孤独(感)は、ただ事では済まされないことが多々あります。殊に正統な嫡子であることに重きを置いている哲学者・芸術家は、生涯の大半をデカルトやカント、ゴッホやセザンヌ等の研究に割くため、独創へ至る手前で事切れる本末転倒や、演繹・実証不必要であるが故に時代・社会との平仄が合わなくなる無頓着は、今も昔も然して変わるところがありません。主な研究材料となる特殊項は「自分ひとり」で事足りるため、フィールドワークらしい調査・散策もなく、ひとりで研究室・アトリエに籠る時が「常」になりかけます。

 そのような閉塞的生活を過ごしていると ─過ごしていても─、ふいに気付く不安があります。それが特殊であろうと、学の名の下に論立てている以上は、普遍的な他者の理解・読解を求めているため、自己の健常性や性差が重くのしかかってきます。おそらく私は、ごく一般的な異性愛者の男性で、欠損器官のない健康体にあるのですが、当研究室HPの活動をとおして出会った方々の中には、同性愛者の方や、聴覚不全の方、恋愛感情を持ち合わせない方までおられます。視覚の危うさを論じても、聴覚の触覚性をつくっても、それら感覚器を使うことなく生活している方へは何の益もなく、捨てられてしまうでしょうし、性的感覚を論理描写しても、出家者には直感しようがないはずです。近代までの哲学は「他者」という概念枠の分化・確保にあくせくし、息切れてしまい、普遍概念へと包摂されてしまった「非自己」とのみ会話してきました。当然それだけでは哲学が思想を導くことなどできず、哲学・芸術家達は実生活・社会へと歩む途端に、数々の難問に立ち塞がれてます。

 他者の機能を手掛かりにして、せめて、他者の系の幻想を抱けなければ、会話のひとつ、その切っ掛けすら掴めずに、私達は「みんなとともにひとりっきり」になってしまいます。「きっと彼は、ああいう性格(システム、プログラム)だから、こういうものを好む(選択)すのだろう」と思えなければ、「彼」が興味を持ってくれる「ひとこと」を発話することはできません。「誰も誰かのために生きているわけではない」といった人間存在の素朴さを不必要にしている無知な皇帝には無用な「ひとこと」かもしれませんが、「生きる私人」には絶対的に必要な気遣いになります。

 そしてここで、私は唐突にも筆を置いてしまいます。すぐ目の前に超えられない壁があるからです。「どんなにあなたが私を愛してくれていても、あなたが私を愛してくれるように、私はあなたから私を愛せない」

 「美」をひとつの普遍コードとした場合、「一般的な男性」からは「一般的な女性」の性愛感情が理解できません。女性を求める女性の同性愛は、対象が異性愛者の男性と同じ概念枠におさまるので、理解の道は開きます。男性の同性愛も謎ではあるのですが、積極的なセルフ・レファレンスとでも形容すれば、安易な理解は可能です。しかし、女性による異性愛は、生物学的倫理観を排除している者(私)には、認識描写ができません。「なぜ、あなたは、あなたより美しくない私を選び取ってくれるのでしょうか」

 これをここでは『情壁』と呼ぶことにします。

2009年9月3日
ayanori [高岡 礼典]