<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>愛憎を分化する方法 [2/2]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../index.html>HOME</a>]<br>&or;<!--#include file="./2006.txt" --><br>[コラム] 09.06.2006</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3 color=#12123d>愛憎を分化する方法 [2/2]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</font></div><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=090606.html> 1 </a>：2 】</font></div><font color=#12123d><p>　愛憎を同等に描く愛の原理を分析してみると即座にそれが尊重ではなく自他同一化の要求であることに気付きます。性交におけるエクスタシーの語源が中世キリスト教神秘思想の鍵概念であるエクスタシス(脱自)にあるように、自己を超えて他者との同一化を企てることが通俗的な愛の理解になっています<font size=1 color=#664444>(*)</font>。伝統的な西洋論理ではそれは「死」を意味するのですが、科学が集団の認識原理となっている現代では矛盾なきものであるかのように受容されているようです。地(面)を自他往還可能な連続・単一のものとして措定する経験科学の準拠枠では支配不可能なものはあり得ないことになってしまうので、他者存在に関する素朴な事実把握すらできません。自己の意志と他者の行為は本来的に接点などなく連動しようのないものなので、他者の自由を知ることのできない科学技術者は苦もなく恋人を憎しみ始めることになります。上述したように憎しみとは理論的記述を不可能とした際に産出される準免疫になるので、科学的視座に基づいた愛の対義は必然的に憎悪になってしまうのです。私達は自己産出した構成素集のすべてをシステムへ還元・実装できるとは限らない生を送っているはずです。</p><p><font size=1 color=#664444>(*)男性的な外方向であろうと女性的な内方向であろうと、ここではそれまでの自己形式を脱却することに関しては同等であるといえます。</font></p><p>&nbsp;</p><p>　ここで私は行為規範を扱う学問分野を科学から人文へと引き戻すべきであると考えています。一般に行為は構造の重層化に誘導されるカスケーディングな現象として捉えられるかもしれませんが、私達は政策者である以前に自らがモティーフの部分を担う行為者であることを忘れるわけにはいきません。それを蔑ろにしたままでは首肯しがたい道徳を用意することによって愛する誰かをこれからも憎しみ続けることでしょう。</p><p>　他者愛とは自ら『自己』になるための自己矛盾を自覚させてくれる必要なディレンマなのです。</p></font><font size=1><p align=center>【 頁：<a href=090606.html> 1 </a>：2 】</p><div align=right>2006年9月6日<br>ayanori [高岡 礼典]</div><!--#include file="./footer.txt" --></body></html>