<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>絶望と憎悪 [2/2]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../index.html>HOME</a>]<br>&or;<!--#include file="./2006.txt" --><br>[コラム] 09.16.2006</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3 color=#12123d>絶望と憎悪 [2/2]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</font></div><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=091606.html> 1 </a>：2 】</font></div><font color=#12123d><p>　憎悪は捕らえられない他者を目標としているので無限に行為理由を産出するかに考えられるのに対して、絶望は目的論を含まないので社会性を排除した忌避すべきものとして一般的には理解されているかもしれません。しかし憎悪とは双方向的な自体交換を前提として指し示す誤謬でしかありません。願いが届くかもしれない可能性になんらかの依拠がなければ憎む必要などないはずです。仮に初期状態へ戻す術があるのならば、それをエントロピーとして定義し積極的な記述を与えられるかもしれません。しかし憎悪に限って述べるのならば、それは発生の自体性によって禁止されているので、やはり反社会的もしくは没社会的と形容せざるを得ないのです。</p><p>　この帰結によって私達はパラドキシカルなディレンマに嘆くことを強要されるのではなく、外挿された背後に初めから潜んでいた絶望に気付かされることになります。絶望とは行為者によるアプローチの可能性が無化された状態でも段階でもありません。それは単に『見出せない』に過ぎないものです。絶望に受動態があるのなら、私達は包囲している構造が自己の思考図式を意味することになってしまい学習が不必要となり社会的コンフリクトが一切ない空想的な平衡存在になってしまいます。それは本来的に嘆きの対象にはならないものです。</p><p>　絶望の真意とは心の本性を手中へおさめる契機として次の場面を約束した『ひとつの階梯』です。夢や希望とは心の志向であって指向ではありません。字義どおりにそれが叶うのならば私達は奴隷の行為を観察するだけで死に至ることになってしまいます。『叶う／叶わない』の区別は前場面で抱いた目的自体によって行われているわけではなく判断時の可能性に基づいて都合よく自ら自身を再教育しているに過ぎません。そのため閉ざされた絶望とは自身の力なさでしかないものなのです。</p><p>&nbsp;</p><p>　心はいつも裏側にその真理をあらわにすることによって私達へ倫理へと誘う未規定・未定義の契機を提供し続けています。ここではその挫折にある心の本性を知ることによって『自責の徳』を学ぶことができます。絶望は愛憎を切り離すだけではなく、憎悪の価値操作を可能とする唯一の手立てなのです。</p></font><font size=1><p align=center>【 頁：<a href=091606.html> 1 </a>：2 】</p><div align=right>2006年9月16日<br>ayanori [高岡 礼典]</div><!--#include file="./footer.txt" --></body></html>