<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>絶望と憎悪 [1/2]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><strong>芸術性理論研究室<br><font size=3 color=#646f76>M<font color=#667077>e</font><font color=#677279>t</font><font color=#68757c>a</font><font color=#60777e>f</font><font color=#717b82>o</font><font color=#747e85>r</font><font color=#7a8389>c</font><font color=#80898f>e</font><font color=#889096> I</font><font color=#8e9698>c</font><font color=#959da1>o</font><font color=#9ea5a9>n</font><font color=#a7adb1>o</font><font color=#b0b6b9>c</font><font color=#b6bcbf>l</font><font color=#bdc2c5>a</font><font color=#c7c8ce>s</font><font color=#d6d9da>m</font></font></strong></div><div align=center><font size=1>[<a href=../index.html>HOME</a>]<br>&or;<!--#include file="./2006.txt" --><br>[コラム] 09.16.2006</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3 color=#12123d>絶望と憎悪 [1/2]</font></div><div align=right><font color=#351923>ayanori [高岡 礼典]</font></strong><br><font size=1>─</font></div><div align=center><font size=1>【 頁：1：<a href=091606-2.htm> 2 </a> 】</font></div><font color=#12123d><p>　仮に憎悪の類を産出する一切の契機が喪失してしまうと私達は自他の概念的区別がないカオティックな環境内に同化・浸透した等質世界内存在として生きることになるでしょう。それは認識域に前景も背景もない見る者を観る者が不在した生なき生に沈潜することを意味します。私達が自らに由る生を歓喜するには無垢からの跳躍による自己の脱純化を経ることによって複雑化を企てなければなりません。ここから汚れていくことのペシミズムが産まれることになるのですが、それは無用の推論です。一般にエレメントとして形容されるようなものがなければ完全な『純粋』を意味します。しかし要素性のないものは系を整序・構成しようがないので本来的な『美』を意味することなく、また「知識(エレメント)」を記述外にしているので取捨選択といった人の特性に反し、美を知ることも語ることもできません。だから私達は汚れうる可能性に臆病にならなくてもよいのです。重要な点はこの論理過程へと導く非連鎖のフェイズを如何に捉えるかになります。</p><p>　<a href=090606.html>前回のコラム</a>で示唆したように単一地(面)を開拓してしまう理論を捨てれば、自由に振舞う他者を知ることができるようになり尊重の場面を獲得できそうに思えます。しかしそれは他者一般の存在性、その形式を知るに過ぎず、他者の戯れまでをも保障しているわけではありません。私達は普遍を目指して知を創造・構成することはできますが、そこから洩れていく特殊対象と対峙することのない世界に生きているわけではないので必ず不自由な世界相となんらかの関係を持たなければならないように先行的であるかのように義務づけられています。「理論と実践」の間にある「と」は古来より形容しがたいものなのです。それは並列なのか、対立なのか、結節なのか、またはそこに方法を埋め込むことは可能なのか。その答えを知らない私達はそのために誰かを憎んでしまうかもしれない社会的場面からも不過避なのです。</p><p>私はここで他者憎悪を自己絶望へとシフトさせたいと考えます。述べるまでもなく『絶望』とはキュルケゴールが心の閉鎖性や円環性を形容代表するために「死に至る病<font size=1 color=#664444>(*)</font>」で用いた術語ですが、このコラムではそれを道徳的に解釈し、行為規範のファーストオーダーへ加えたいと思います。</p><p><font size=1 color=#664444>(*)キュルケゴール［1849］「死に至る病」（斎藤信治訳）岩波文庫1939,1957</font></p><p>&gt;&gt;<a href=091606-2.htm>次頁へ進む</a></p></font><font size=1><div align=center>【 頁：1：<a href=091606-2.htm> 2 </a> 】</div><!--#include file="./footer.txt" --></body></html>