<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>無効な批評語 [2/2]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../index.html>HOME</a>]<br>&or;<!--#include file="./2007.txt" --><br>[コラム] 09.30.2007</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3 color=#12123d>無効な批評語 [2/2]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</font></div><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=093007.html> 1 </a>：2 】</font></div><font color=#12123d><p>　研究室の外へ一歩出たら、すべて忘れてしまうかのような行為即行為者らによる良くある愚行例は批評文の中にあります。理論をお座なりにしている学問分野ならともかく、西洋思想における観念論や、それに近似したものを専門にしている研究者ならならば、絶対に使用できない言葉・論法があるのですが、それを軽々しく用いている様に遭遇すると、この上ない脱力感に打ちのめされてしまいます。</p><p>&nbsp;</p><p>　有限性を公理にした場合、自己完結批判はあり得ません。したがって「ひとりよがり」「妄語」などといった言葉は使えません。難解・生硬であるが故の批判は論外になります。商業家にとってお馴染みの倫理観の大半が哲学的・本来的には無効なのです。自己中心批判は、その批判を投げかける者の自己中心性との相克により、批判者を絶対化します。気付かないパラドクスは自己肯定永続の力として働くためです。そのため「気付かせなければならない場面」は「手遅れ」であることが多く、「聴く耳」も「他者を知る力・知ろうとする力」もない頑固者の独壇場となってしまいます。当然、自己を絶対化しているので、議論などといった概念がなく、不明な点を確認しあうなどといったこともなく、どこをどのように理解したのか見当もつかないコメントを返してくるので、会話の成立などあり得ません。</p><p>　この問題が最悪であるといえるのは、その批判者らが芸術に関わっているにもかかわらず、安易な「自己完結批判」は芸術否定と同義であることに気付いていないという点にあります。「『術語や造語が分かりにくい』が批判理由になるのならば、あなたが毎日のように制作している美術作品の外延は、どこにどのように存在するのですか」と、わざわざ反問しなければならないほどに、稚拙極まりない者らによって人文・芸術は溢れ返っています。</p><p>&nbsp;</p><p>　もしも即戦的に教育や学問の制度に想いを馳せたいのならば、学生や子供達ではなく、教授や講師陣を育成・訓育する施設を用意する必要があるでしょう。その「絶対化された自己矛盾」を突き崩すアイディアとともに。</p></font><font size=1><p align=center>【 頁：<a href=093007.html> 1 </a>：2 】</p><div align=right>2007年9月30日<br>ayanori [高岡 礼典]</div><!--#include file="./footer.txt" --></body></html>