<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>芸術作品と意味論 [1/2]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><strong>芸術性理論研究室<br><font size=3 color=#646f76>M<font color=#667077>e</font><font color=#677279>t</font><font color=#68757c>a</font><font color=#60777e>f</font><font color=#717b82>o</font><font color=#747e85>r</font><font color=#7a8389>c</font><font color=#80898f>e</font><font color=#889096> I</font><font color=#8e9698>c</font><font color=#959da1>o</font><font color=#9ea5a9>n</font><font color=#a7adb1>o</font><font color=#b0b6b9>c</font><font color=#b6bcbf>l</font><font color=#bdc2c5>a</font><font color=#c7c8ce>s</font><font color=#d6d9da>m</font></font></strong></div><div align=center><font size=1>[<a href=../index.html>HOME</a>]<br>&or;<!--#include file="./2006.txt" --><br>[コラム] 10.20.2006</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3 color=#12123d>芸術作品と意味論 [1/2]</font></div><div align=right><font color=#351923>ayanori [高岡 礼典]</font></strong><br><font size=1>─</font></div><div align=center><font size=1>【 頁：1：<a href=102006-2.htm> 2 </a> 】</font></div><font color=#12123d><p>　見識めいた言葉を並べる修辞だけを身に付けてしまったキュレーター。一次評価と追従の区別を知らないエディター、ライター。児童らによる読書感想文以上を超えることのない乱暴な判断の量産と羅列。意味論を悪用した無意味の集合によって作品自体へ向かう視線を撹乱・拡散させ、有意味であるかのように作られたハリボテが現代の芸術文化の実態です。それは作家達を取り巻くブローカーだけではなく、作家を育成する無責任な教授・講師陣によっても伝道されていることです。意義なき発意だけのシニフィアンに社会的認知文脈によって飛躍した意味を帰属させ「芸術」などといった言葉を制度化・ドグマ化することに成功し、成長を抑制する温床を守っていくことにいかほどの意義があるのでしょうか。プレゼンらしい言葉もなく、常に評価を相対的にゆだねゆだねていくことが正しいとするのならば私達は学問の一切を必要とすることなく、その場の状況に対応するだけの機会論的な生を強いられるオブジェになってしまうことでしょう。</p><p>　継続即価値は往々にして瞞着のテクニックなのです。</p><p>　社会的意義とは単なる関係や交換によって発生するわけではありません。哲学知らずの経済学者や評論家に騙されてしまっては去勢された自己なき羊で終わってしまいます。アリストテレスは意味一般の潜在様相を描いたのであって意義について定義規定したわけでもなく、それらを同義として扱ったわけでもありません。彼は師の教えの全てに背いたわけではないのです。</p><p>　価値に必然性が内属されていないように意義は遍在しているわけではなく自己吟味によって創られなければあり得ないものです。それを議論といった相互作用をとおして何らかの共有性を見出せ得るものへ審級変位した場合に初めて可能的福祉になるのです。ですからここでの共有性とは演繹でも帰納でもなく特殊を超えていく普遍の範疇になるので意義とは顕在ではなく他者の行為や価値を期待・予見する自己確信でしかないものなのです。そしてこれは作家が作品に込めるものと変わるところがありません。</p><p>&gt;&gt;<a href=102006-2.htm>次頁へ進む</a></p></font><font size=1><div align=center>【 頁：1：<a href=102006-2.htm> 2 </a> 】</div><!--#include file="./footer.txt" --></body></html>