<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>厭世と最適合 [2/2]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../index.html>HOME</a>]<br>&or;<!--#include file="./2006.txt" --><br>[コラム] 10.27.2006</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3 color=#12123d>厭世と最適合 [2/2]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</font></div><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=102706.html> 1 </a>：2 】</font></div><font color=#12123d><p>　多くの方々が自己の構成史において厭世主義を採択していた時期があると思います。自己と非自己がズレていく偏差現象に対して論述ある認識ができないために発生する葛藤を社会へと帰するひと言で慰めたことが一度はあるのではないでしょうか。しかし述べるまでもなく厭世主義はその排他性によって自己すらも失ってしまいます。閉じた完全なる「自由」は何も産出しないので、それだけでは原理にはなりえないものです。それ故に純然たるペシミズムには必ず末路があり自害があるのです。個と社会が相互背反であることに気付くと、それまでに構築維持してきた主義を諦めと楽観によって最適合へと一新しアドホックな生へと御自身を投げ出されているのではないでしょうか。代換として最適合主義を筆頭の起動産出原理に設定し、自己の安寧に満充していかれることと思います。そして言葉ひとつで突き崩される怯えた群れを組織していきます。なぜなら最適合主義とは心を排した構造主義によって作られた科学理論でしかないためです。自身の言葉を一切持つことなく事実・出来事に即していく隷従の行為規範を極めても没思考は『人類』を意味しないために自己の生を説明できない生物学者は人文学の前で無口にならざるをえません。これが「物だけが豊かになってしまった」という昔からある非均衡批判をくり返す論拠になります。</p><p>　厭世主義は没産出性によって無能の理論であるかのように批判されてきました。たしかにそれは個を絶対化してしまうので反社会的でネガティブなものかもしれません。しかしそこで揶揄されている者は最適合主義者らのそれとは違い単に主義に犯されているだけの没人へ向けてのものであることに私達は気付かなければなりません。主義とは使用することによって道具化しなければ主義ではないのです。</p><p>&nbsp;</p><p>　主張活動が巨視的視野から始めなければならないのならば厭世主義を外すことはできません。それならば私達が第一に求めなければならない思想的段階とは拒絶を突破する<strong>ポジティブなペシミズム</strong>であることはあきらかなはずです。</p></font><font size=1><p align=center>【 頁：<a href=102706.html> 1 </a>：2 】</p><div align=right>2006年10月27日<br>ayanori [高岡 礼典]</div><!--#include file="./footer.txt" --></body></html>