<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>手について [2/2]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../index.html>HOME</a>]<br>&or;<!--#include file="./2007.txt" --><br>[コラム] 10.31.2007</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3 color=#12123d>手について [2/2]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</font></div><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=103107.html> 1 </a>：2 】</font></div><font color=#12123d><p>　そして、ここには不都合がひとつあります。もしも手が字義どおりに『点と面』を心的に現象化しているとするのならば、対象を「にぎる」場面において、私達は如何にして異なる感覚与件を統合し、「ひとつのものを握っている」と判断しているのでしょうか。視覚による先行的な対象の同一確認があったとしても、視覚環境と触覚環境は本質的に異なるものなので確約にはなり得ません。そこには単純な次元批判以上の相容れなさがあります。目(網膜上)に映る世界の全ては触れられないのですが、その反面、手は視覚の届かない物体の背後へと容易く到達できてしまうので、両者は独自の環境を形成していると主張できます。この視覚の役立たなさは、手の記述困難な曖昧性によって補完され、結節されることになります。</p><p>　しっかりと不透明のグラスを握りしめてみます。グラスの裏側が見えなくとも、そこへと回り込んだ四本の指によって、グラスの背面存在を触知するラディカリズムは親指によるバインドや手の平による側面からの補いだけでは、同一体へと導けないことが分かると思います。それぞれの感覚与件が明文化できるが故に、逆説的に、同化できないディレンマが発生します。それを融解するために、親指の膜と人差し指のから親指へとつながる膜の「稜線」が働きます。それぞれ分け隔てられた感覚与件は、膜の『面と線』によって結ばれ、認識は『流れ込み』を創発し、同一へと帰結します。親指の膜は『面と線』といったアンビヴァレントな同一体であるがために、漸次的浸透化に成功し、複合体である『手』は日常的な単位を得ているのです。</p><p>&nbsp;</p><p>　背中へと回り込ませた手の平も、抱き寄せる「腕」がなければ、『一』になりにくいことと同様に。</p></font><font size=1><p align=center>【 頁：<a href=103107.html> 1 </a>：2 】</p><div align=right>2007年10月31日<br>ayanori [高岡 礼典]</div><!--#include file="./footer.txt" --></body></html>