<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>触覚について [2/2]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../index.html>HOME</a>]<br>&or;<!--#include file="./2006.txt" --><br>[コラム] 11.17.2006</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3 color=#12123d>触覚について [2/2]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</font></div><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=111706.html> 1 </a>：2 】</font></div><font color=#12123d><p>　たとえば目の前のモニターに、たとえば誰かの肌に「手のひら」を押し当ててみる。そして、ゆっくりと対象の表面に沿わしずらしていく。触覚は一般にこの連続的な移動による過程によって、初めて肌理についての情報を得ることができる文脈的な感覚です。最初の押し当てでも肌理を知ることができると思われる方がおられるかもしれませんが、それは面に対しての垂直方向の力が安定していないので、静的に見えつつも触覚は情報を取得してしまうに過ぎません。人の肌のような手のひらと同質の対象を長時間にわたり微動なく接触させていると、やがて接触者と被接触者との間にある力と体温の差異が近似・均衡してしまい、「何かを触れているにもかかわらず、何を触れているのか分からない」といった、まるで自己と他者が同化したかのような体験を得ることができるはずです。それによって上記の初回接触における非平衡性について実感して頂けると思います。そして特筆すべきはここにあります。臭覚や聴覚も文脈的には変わりないのですが、この単位的局面がありません。味覚にも「点」はありますが、触覚ほどの明確性はないように思えます<font size=1 color=#664444>(*)</font>。とくに触覚による非文脈的な感覚場面は拡大身体ではなく身体境界の喪失を感じることができます。</p><p><font size=1 color=#664444>(*)視覚に「点」があるとするなら、それは光なき暗闇になります。しかし自他の両義性に挟まれる触覚の「点」に対して、視覚の場合は自他なき自己の完全性を現象化するので、感覚とは呼びがたい特殊なものになります。視覚情報における最小単位を描き出すには形而上学的な別の議題や論法を必要としています。</font></p><p>　そもそも触覚だけが他の感覚と違い、身体・延長性を前提とした感覚です。そこから得る情報はすべて自身の肌や身体強度との比較によるものという意味で、常に自己を含んでいます。そのため感覚平衡が境界喪失的・脱環境的となってしまい、私達はながい抱擁にさまざまな誤解を感じることになるのです。</p></font><font size=1><p align=center>【 頁：<a href=111706.html> 1 </a>：2 】</p><div align=right>2006年11月17日<br>ayanori [高岡 礼典]</div><!--#include file="./footer.txt" --></body></html>