<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>完成・終わりについて [1/2]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><strong>芸術性理論研究室<br><font size=3 color=#646f76>M<font color=#667077>e</font><font color=#677279>t</font><font color=#68757c>a</font><font color=#60777e>f</font><font color=#717b82>o</font><font color=#747e85>r</font><font color=#7a8389>c</font><font color=#80898f>e</font><font color=#889096> I</font><font color=#8e9698>c</font><font color=#959da1>o</font><font color=#9ea5a9>n</font><font color=#a7adb1>o</font><font color=#b0b6b9>c</font><font color=#b6bcbf>l</font><font color=#bdc2c5>a</font><font color=#c7c8ce>s</font><font color=#d6d9da>m</font></font></strong></div><div align=center><font size=1>[<a href=../index.html>HOME</a>]<br>&or;<!--#include file="./2005.txt" --><br>[コラム] 11.23.2005</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3 color=#12123d>完成・終わりについて [1/2]</font></div><div align=right><font color=#351923>ayanori [高岡 礼典]</font></strong><br><font size=1>─</font></div><div align=center><font size=1>【 頁：1：<a href=112305-2.htm> 2 </a> 】</font></div><font color=#12123d><p>　芸術家が筆をとる瞬間の激動は作品を仕上げたことがない方でもそこへ至るまでの様々な苦悩は容易に想像のつくことと思います。「作る理由」を無媒介に見出すということは「ひらめき」などといったジャーゴンが未だ死語にならないように理論付けが困難な局面であるためです。しかし独りの芸術家が思い悩む最大のシークエンスとは「作り始め」以上に「作り終わる」ところにあります。</p><p>　素朴な確認から述べるなら、私達は生きている限り「終わり」がありません。私達の生の最中に一時停止や死などといったものがあれば、それは生を意味しません。生とは一回的な連続によるコンテクストです。これは俗語となって至る所で謳われますが、宗教の産物である制度内容から逃れられない現行社会で生きる私達は即座に「分節」ある空間へと戻されてしまいます。入学式・卒業式・結婚式・七五三といった通過儀礼、日常の行為規範である様々な「法」や「礼」が私達に「過去のリセット」と社会信仰を訓育する努力を行います。</p><p>　この社会構造の複雑・重層化の起源を私は過激な理論至上による一元論者にあると考えます。それは端的な混同による乱暴な産物です。『創世記』を筆頭に世界中の宗教の語り始めにある世界創造の物語は起源論以上に区別(コード)の概念を導入した分化の認識論を含んでいます。『区別』とは区別するものを決して前面へ押し出すことのない他者言及的な概念になります。かつてアウグスティヌスが述べたように「美」を区別するコードは「美しい」か「美しくない」かを判断しているのであって「美とはなにか」を判断しているわけではありません。コードはコード自身を思索の対象とすることができず、自己を永劫に裏側へ幽閉し、かつ永遠の前提とするものです。そのため『区別』は不可侵の『第一原理』を産み出してしまいます。経験の領域を無限に拡大していけることを私達は論理的に可能としますが、自己の領域を無限拡大することや、自己自体を自己が道具化することは論証不可能なため「不可侵」とはどこまでも自己へと配分される概念であり、そのため『第一原理』は個の背後へと潜んでしまうことになります。ここから人は神を手懐け、手当りしだいに分化する潜在的な思想を手に入れました。それが「理性」であり「主体」です。一般に「主体」といった概念はポスト神的に説明されますが『第一原理』を遍在しないもの共同所有不可能なものとして一元論が支配的だった思想期のほうが動因を記述しやすく自律的だったという意味で、神的概念が有用性を保持していた頃のほうが個はより主体的に振舞っていたと考えます。</p><p>&gt;&gt;<a href=112305-2.htm>次頁へ進む</a></p></font><font size=1><div align=center>【 頁：1：<a href=112305-2.htm> 2 </a> 】</div><!--#include file="./footer.txt" --></body></html>