<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>原因と結果の弁証法 [2/2]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../index.html>HOME</a>]<br>&or;<!--#include file="./2006.txt" --><br>[コラム] 11.24.2006</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3 color=#12123d>原因と結果の弁証法 [2/2]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</font></div><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=112406.html> 1 </a>：2 】</font></div><font color=#12123d><p>　たとえを変えてみます。あるメーカーが商品を発売し、よく売れたとします。このような場合も世俗の方々は手柄や評価をめぐって懸命に挙手してくれるのですが、誰がその原因を担っているのでしょうか。アイディアを出した企画やその前段階のマーケティングでしょうか。それを形にしたデザイナーやエンジニアでしょうか。商品を作るために資金を調達し、流通させた渉外や広報等の営業・ディレクターでしょうか。それとも会社の運営を指揮した取締役でしょうか。もっといえば、それを商品として認めた消費者・エンドユーザーなのでしょうか。私達はこのような良くある議論で挙げられる項目のどれかに原因を見出した時、どれひとつ抜きにしては、それを原因として同定できないことに気付く必要があります。会社形態のような組織活動はそれを知るためには格好の場なのですが、大抵の会社員の方々はそれを知り認めようとしません。そのような方々をフラクタルな倫理を怒号する者といって批判したくなります。原因が結果までをも司っているのならば、出世を目論むサラリーマンは独りでアイディアを出して商品を作り、売り、独りでその商品をすべて購入するといった絶対評価のループを形成し虚勢を張らなければならないはずです。</p><p>&nbsp;</p><p>　王は民衆に慕われるから王でいられ、民衆は王によって支配・守られているから民衆でいられます(<small>主人と奴隷の弁証法</small>)。それが社会的であろうと概念的であろうと、関係性がある世界に単体で自立して存在できるものなどひとつもないのです。この人口に膾炙しているかのように思える教科書的な定説が意外に流布されず、またそれに徹底した研究活動を行う学識者があまりにも少ないので、再三繰り返さなければなりません。それはあらゆる決定因子の無効・払拭を意味します。</p><p>　原因とは未規定・未定義な何らかの結果へと事象を動かす「きっかけ」でしかない未決定な不動者です。原因が結果までの文脈史に並ぶ全項目を内に含み、複合的な構造をなしているといえるのならば、それは通俗的なラマルキズム的解釈でかまわないのかもしれませんが、それ以上微分できない複合体などあり得ようがないものです。決定原因という第一概念に固執する方々はその後のあらゆる流れや変化の事実描写すらできないことを知らなければなりません。</p><p>&nbsp;</p><p>　そしてそれに加えて、ここで結果がプロセス全体によって決定されることを知った私達はそれでも自己のプライオリティーを謳いたい衝動に駆られる時、どのような道徳を構築すればよいのかと落日を仰ぎ見ることになります。</p></font><font size=1><p align=center>【 頁：<a href=112406.html> 1 </a>：2 】</p><div align=right>2006年11月24日<br>ayanori [高岡 礼典]</div><!--#include file="./footer.txt" --></body></html>