<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>原因と結果の弁証法 [1/2]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><strong>芸術性理論研究室<br><font size=3 color=#646f76>M<font color=#667077>e</font><font color=#677279>t</font><font color=#68757c>a</font><font color=#60777e>f</font><font color=#717b82>o</font><font color=#747e85>r</font><font color=#7a8389>c</font><font color=#80898f>e</font><font color=#889096> I</font><font color=#8e9698>c</font><font color=#959da1>o</font><font color=#9ea5a9>n</font><font color=#a7adb1>o</font><font color=#b0b6b9>c</font><font color=#b6bcbf>l</font><font color=#bdc2c5>a</font><font color=#c7c8ce>s</font><font color=#d6d9da>m</font></font></strong></div><div align=center><font size=1>[<a href=../index.html>HOME</a>]<br>&or;<!--#include file="./2006.txt" --><br>[コラム] 11.24.2006</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3 color=#12123d>原因と結果の弁証法 [1/2]</font></div><div align=right><font color=#351923>ayanori [高岡 礼典]</font></strong><br><font size=1>─</font></div><div align=center><font size=1>【 頁：1：<a href=112406-2.htm> 2 </a> 】</font></div><font color=#12123d><p>　先人達が人類史の原初段階において事象の起きる理由を問いに立ててしまった時から歴史年表の上には原因をめぐる論争で埋め尽くされています。当初より無限に遡及することが可能である人の認識域に対して、起源的概念は反してしまうものであることに気付いていたので、原因説〜神〜無意識と数えきれないほどのファーストオーダー(神話)が私達の教科書には並んでいます。それらは制御欲とハザードへの不安の拮抗が産み出した歪んだ学知であり、人を謳える論拠でもあるのですが、思想の域を超え出るものではないために背反の勢力が後を絶ちません。</p><p>　たとえば部屋の照明をつけてみます。なぜランプが灯されたのでしょうか。それによって通電したからでしょうか。ではなぜ誰かはスイッチを押したのでしょうか。なぜスイッチは取り付けてあったのでしょうか。なぜ電気は流れ、ランプが光源となり、明るくなるのでしょうか。なぜ光は存在するのでしょうか。</p><p>　「なぜ／どうして」はそれがいかに特殊事項に関するもの、あるいは原因からの観察であったとしても普遍概念への問いへと発展していく超越性を内属した疑問副詞です。ですから「なぜ」を含む対話を成立させるには思想の共有が前提にならなければなりません。しかしそのようなことは事実上不可能に等しく、私達の日常には尻切れのコミュニケーションが多く遍在することになるのです。「なぜ」は知的探求へ挑ませる大切な品詞になるのでガイドラインの主張など行いませんが、ここで空虚な会話を少しでも内容ある議論へと昇華させるために、ながく続いている原因概念についての誤解を解き放ちたいと思います。</p><p>　一般に社会的コンフリクトが発生すると、結果から原因をめぐって巷は騒ぎ立てます。そして必ず誰かの所為にして、自己を肯定するペダントリーが跋扈するのですが、多くの論述の至る所に誤りが散見されます。たとえば快楽的な殺人鬼の人をあやめた理由は残虐なエンターテインメントや凶器になりうる道具が入手しやすい社会環境におかれていたためなのでしょうか。それとも遺伝子構造が殺人を犯すように配列されていたためなのでしょうか。あるいは愛情を見出せない環境で産まれ育ったためなのでしょうか。行為者の自律／他律の議論を不問にしても、原因は自体的に結果を決定するものではないことに気付かなければなりません。</p><p>&gt;&gt;<a href=112406-2.htm>次頁へ進む</a></p></font><font size=1><div align=center>【 頁：1：<a href=112406-2.htm> 2 </a> 】</div><!--#include file="./footer.txt" --></body></html>