<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>無題と匿名 [2/2]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../index.html>HOME</a>]<br>&or;<!--#include file="./2006.txt" --><br>[コラム] 12.08.2006</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3 color=#12123d>無題と匿名 [2/2]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</font></div><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=120806.html> 1 </a>：2 】</font></div><font color=#12123d><p>&gt;&gt; 一見すると表現者は初回の作品提示の段階で他者一般の概念を懐念する者であることが示されているかのように思えます。それが慣習化された言語記号や人の文化を描いたものならば尚のことだと思います。しかし表現の一人称がコミュニケーションを意図したものといえるのならば、私達は独り言を呟く自己確認すら許されないことになります。記号とは本来的に使用者が自由に意味を定義できる形でしかないものなので、私達は時勢にあわない言葉であったとしても様々な想いを込めて、詩的・文学的表現を行うことができるのです。ですから、かつてウェーバーが述べていたような誰にも見せることがない日記については、限局的にはコミュニケーションであるとはいえないはずなのです。絶対性は自己を超えられないことを忘れていなければ、作家はオーディエンスからの問いや批判である定義項を回答することによって自己へと結節し、初回のアプローチを被定義項化しなければ、それをコミュニケーションを意図した作品とは呼べないのです。</p><p>　ここで相互作用(ハンドシェイク)は人にとってのダイアローグではないことが理解できると思います。つまり最小のコミュニケーションとは第一者が非連続的に二回の作用を行なうものであり、総合的には作用を表す線が三本なければ単位とはいえないのです。</p><p>　そこで前述した無題・匿名(無記名)の活動が社会的であったとしても、会話ではないことが規定・定義されます。誰が何のために行なったのか理解するための端緒がないものや、レスポンスの期待が不可能なものに、人は問いを立てることがないでしょう。そしてこれが芸術文化の遅延・停滞やネット上のBBSにおける醜悪なまでの未発達さを招き起こしている元凶なのです。</p><p>　自己を隠すことによって己の真理を絶対化・普遍化して守っても、誰も己を個として、人として対象化し、尊重してはくれない。そして何を行なおうとも、寸毫の社会的意味すら作り残せないということです。</p></font><font size=1><p align=center>【 頁：<a href=120806.html> 1 </a>：2 】</p><div align=right>2006年12月8日<br>ayanori [高岡 礼典]</div><!--#include file="./footer.txt" --></body></html>