<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>心的システムとはなにか [2/4]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>&or;<br>[<a href=../index.html>研究レポート目次</a>]<br>&or;<br>[002]</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3>心的システムとはなにか [2/4]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</div><div align=center>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：2：<a href=3.htm> 3 </a>：<a href=4.htm> 4 </a> 】</font></div><p>　観察者による記述内容と構造体自体の内包量を同義とする排自的な定義をシステムの類概念として設定してしまうと非自律的な道具的存在者の説明は上手くいくだろうが、我々のような生命体や人間のイデアールな局面の叙述に関しては即座に閉口せざるをえないことに気付かされる。非同質的な複合体は上述の定義に種概念を加えなければならない。あらゆる情動や思考内容といった認知レベルに対応する身体現象や脳内に起こる様々なコネクションを緻密に叙述しようと、それは機能の構造現象であって決して心や知性そのものではない<font size=1>(*)</font>。心は「脳の機能<font size=1>(**)</font>」といった名辞と置換可能なものではなく、単に観点の相違だけで説明可能なものでもない。そこには超克しがたい「無限の質的飛躍」がある。他者による自己定義は他者規定であって自己による自己定義、分析記述ではない。パラレリズムを対応即意味的に看過すると自他発生論が発生せずカオス的原初世界の非境界性による茫漠たるまどろみを選択構成することになる。このテクノクラートによる認識論は擦り抜ける他者を把握不可能とするにも拘わらず他我の確定判断を行う点で明らかに主奴の両立産出を目論む権謀術数である。</p><p><font size=1>(*)　対応関係の限界を説明する際に「脳と心」は良く用いられる。例えばゲオルク・クニール／アルミン・ナセヒ[1993]「ルーマン　社会システム理論」　館野受男　池田貞男　野崎和義訳　新泉社1995　60-65頁。<br>(**)　養老孟司[1989]「唯脳論」ちくま学芸文庫1998　28頁以下。</font></p><p>　システム／構造またはシステム／環境は確かに相互浸透的、互換的である。いかなる認知現象も必ず自己構造の現象化や環境の前提ないし現前的介在との相応から免れ得ないように見える。そのため対応論による描写は普遍的な演繹性を保持しているかのように思われる。しかし上述のようにそれは決して『心自体』を意味しない。仮に科学者による対応記述がパラダイム・チェンジによる心自体とするのならば、今まさに『痛み』を感じている大脳構造を観察した刹那に他者の『痛み』そのものを自己の認知レベルに創発しなければならない。これは端的にファンタジーであり、拡大解釈すればシニフィアン／シニフィエの同一性を述べていることを意味し、相互作用における齟齬の事実すら永劫に記述外のものとしてしまう。この対応関係に欠けているものとして哲学は『充足関係』という概念提示によって懐を分つことになる。我々の経験は必ず経験対象と一対一対応しているかもしれないが、経験対象を認知レベルで対象化することによって得られる情報は経験者の行為可能性の縮減の原理を決定付けているわけではない。情報とは経験対象に内属しているものではなく認知者固有の強度によって自律的に創発されるものである。経験とはシステムの連続的な志向性を攪乱するエントロピーをシステム自らが自己産出する際に併存する一契機であって、経験対象は志向性のベクトル化を行うことのない非決定的な介在者に過ぎない。空のグラスにワインを注ぎ込むようにシステムは環境から同質のプログラムをインストールされているわけではない。タブラ・ラサのような経験論はシステム固有の強度、その固有性や認識の誤謬を記述外にしていることを再度確認しなくてはならない。システム／構造間にこの充足関係が認められない限り、心的システム論は上述のシステムの定義を受け入れるわけにはいかない。心的システムは環境を前提としているという点で決して自足しているとは言えないが、自律的充足を行っているという点で環境に依存しているわけでもない。これは未だにプラトンの学習の比喩である観想（テオリア）の有効性を保証するものでもある。</p><p>&gt;&gt;<a href=3.htm>次頁へ進む</a></p><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：2：<a href=3.htm> 3 </a>：<a href=4.htm> 4 </a> 】</div><div>─<br>─</div><div align=right>&copy; <a href=../../copy.htm>ayanori.jp</a><br>─<br>─<br>[△<a href=#top>PAGE TOP</a>]<br>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>[<a href=../../map.htm accesskey=0 directkey=0 nonumber>MAP</a>]</div></font></font></body></html>