<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>心的システムとはなにか [4/4]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>&or;<br>[<a href=../index.html>研究レポート目次</a>]<br>&or;<br>[002]</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3>心的システムとはなにか [4/4]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</div><div align=center>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：<a href=2.htm> 2 </a>：<a href=3.htm> 3 </a>：4 】</font></div><p>＊＊＊</p><p>　キリスト教神学における重要な鍵概念である『処女性』とはシステムの超越不可能性、伝達不可能性、不可侵性に還元される。それはそれ以降の大陸合理論<font size=1>(*)</font>から現代思想<font size=1>(**)</font>に至るまで語られ続けた絶対的的な否定しがたい事実である。自我は自己を超えることはできず、また超えてはならない。この超越不可能性に関する規範的命題の要請、その準拠点とは、それを否定することは社会と個を共に相殺してしまうことを意味してしまうためである。システム論に『主体』といった概念はあり得ない。</p><p><font size=1>(*)　例えばスピノザ『エティカ』　工藤喜作・斉藤　博訳　世界の名著30所収　中央公論新社1980　定理6　81頁。<br>(**)例えばJ-P・サルトル[1943]『存在と無　上下』　松浪信三郎訳　人文書院1956-1960;1999</font></p><p>　システムは構成素域に系の原初形態を構成し終えた時、環境と自己言及性を同時に獲得する。心的システム論において認識論と存在論は同義的に扱われる。システムは超越不可能であるために原理的に自己言及的である。しかし系列化以前の第一プログラムなきシステムは存在も認識も共に意味してはいない。その段階のシステムは『わけもわからず』オペレートしているに過ぎない。第一系列化までのプロセスとは時間ではなく時熟を意味している。この論理的プロセス時のシステムは自己成立以前の裸のファースト・オーダーである。システムは境界化を終了することによって初めて自己定義を可能としている。その段階において初めて原的な自己言及性が反省的自己言及性へと編成される。またシステムは対応関係の必然性によって自己発生と同時に環境システムの記述を開始する。そして、この階梯を経ることによってシステムは物理的時間概念を持ち得、かつ自己変動性をも獲得する<font size=1>(*)</font>。これは相互超越不可能の前提によって古典的観念論を意味せず『主体』なき二元論、『位階秩序』なき二元論を意味している。システムの成立によってのみ環境の存在可能を唱えるにはシステムによる環境の確定記述を証明しなければならないが、これは端的に前提違反であるために不可能である。</p><p><font size=1>(*)　論理プロセスと構造プロセスの区別はオリゲネスまで遡る。オリゲネス『創世記講話』　小高　毅訳　中世思想原典集成1所収　平凡社1995　第一講話　504頁。「第一日」と「一日」の区別にそれが端的に表現されている。</font></p><p>　システムにとって環境が環境であるように環境にとってもシステムは環境である。これは環境システムが自己を成立させるには何らかのかたちでシステムを前提としなければならないことを意味する。超越不可能性はシステム／環境の発生同時性を保証している。</p><p>　さらに超越不可能の前提は自己の記述する他者構造とはシステム可能体でしかないことを意味している。対応／充足の区別によって他者は<font color=#000000>何らかの</font>システム単体ではあるが<font color=#000000>何の</font>システム単体であるかは記述不可能であることを意味している。これはシステムによるシステム産出は構造記述内でのみの有効性を主張し、絶対的因果性を却下するものである。</p><p>　『人間』は「人間」を生み、また「人間」は「人間」を生む。しかし『人間』も「人間」も共に『人間』を生むとは定言できない。心的システム論は古来よりある世界の全係争のディレンマを構造領域に保存したままドラスティック・コミュニケーション・エシックスを主張することによって新たな価値判断を可能としている。それは支配者も平等もない『対等』への世界啓蒙である。</p><p align=center><font size=1>METAFORCE ICONOCLASM 2003<br>ayanori [高岡 礼典]</p><div align=center>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：<a href=2.htm> 2 </a>：<a href=3.htm> 3 </a>：4 】</div><div>─<br>─</div><div align=right>&copy; <a href=../../copy.htm>ayanori.jp</a><br>─<br>─<br>[△<a href=#top>PAGE TOP</a>]<br>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>[<a href=../../map.htm accesskey=0 directkey=0 nonumber>MAP</a>]</div></font></font></body></html>