<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>愛と恋 [2/5]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>&or;<br>[<a href=../index.html>研究レポート目次</a>]<br>&or;<br>[004]</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3>愛と恋 [2/5]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</div><div align=center>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：2：<a href=3.htm> 3 </a>：<a href=4.htm> 4 </a>：<a href=5.htm> 5 </a> 】</font></div><p>　我々は絶え間ない文脈化によって生の意味を構築していく。一瞬のシークエンスも次のそれがなければナンセンスである。現在行為は過去行為の把持と未来行為の予持との相互関係化によって初めて意味や価値になる。意味や価値は産出されるものではなく連接されるものである。これはフレーゲやオートポイエーシスを待たなくとも、既にアリストテレスが名辞の説明の際に気付いていたことである。システムによる構成素の連続産出、その個々のシークエンスを自体的に成立させているものとは恋である。恋とはシステムではなくプログラムの機能である。恋は選択原理のように振る舞うがその全てではない。恋は選択原理の類ではなく種である。恋の種差とは非対自性であり、そのため恋による関係化は暫定的かつ脆弱なものであり、不断に関係対象と関係内容を非反省的に更新していく。そのため我々は新たな経験を可能とする。そして恋は裏切りのプログラムでもある。</p><p>　エントロピーによる攪乱によって恋は起動し、黙殺することによって擬似的に恋はエントロピーをネゲントロピー化する。エントロピーは拡大、堆積しつつ励起化するものである。その線形性を恋は特性である非線形性の狡知を用いて論理プロセスの方向性を複雑化、非整合化する。しかしシステムは同一性の強度によって複雑化、断片化を縮減、解消しようと試みる。恋は常にシステムと競合関係にある。システムは愛によって構成素域に自己をプログラムする。それは必然的に環境を発生させ適合度をめぐってシステム域にエントロピーを産出してしまうことになる。システムは自己同一性を概念化するために抑圧項をシステム域に産出する。システムはエントロピーによる受動的な自己破壊を免れるために恋を共働させ能動的な自己破壊を試みる。恋は自己同一性保存を遅延するためのアポトーシスである。</p><p>　愛はシステムに内属した機能であって、決してそれ自体が構成素域に出現するものではない。我々が愛を語る時、それは「洞窟の比喩」のようにファースト・オーダーの幻影でしかないのである。愛の沈潜性、擬似的な湧出性によって、過剰なまでの非連続の連接史を送ろうと我々は過去の自己の同一的存在性を懐疑することなく生きていくことが可能になる。我々は幻影の自己をたよりに幻想の世界を生きている。</p><p>　恋による生成流転の記述によってシステムは賦活化されるが、その刹那に虚無の淵に自己を追いやる。恋による非線形的、非連続的な非文脈化では意味の産出不可能性によって構成素域に自己概念を保存不可能としてしまうためである。恋は無限に「むなしさ」を産出し続ける。連続作動を前提にすれば恋は必然的に発生する結果である。そこに知性の介在は必要なく無差別に賦与される。それに対して愛は自然発生するものではなく、愛を希求するのならば構成素域に創造されねばならないものである。しかもそれは構成素の連続更新の際に共に更新されねばならない。愛は技術知のようなポテンシャリティーへとは変換できない。愛自体はシステムに内属した創造されざる関係原理だからである。恋はインターフェイスを作り出し、愛は『規範』を創り出す。恋は情動に妥当するが、愛は決して情動ではないのである。</p><p>　システムと構成素の共約不可能性によって愛を獲得するには自己の強度にかかっている。愛の歴史とは自己が自己を記述する、存在の根拠である。そのため愛の喪失は自己の完全否定になる。愛を原理にする者にとって、その瓦解がこれほど恐怖なのはそのためである。記憶があっても関係化不可能ならば無意味である。それは正に『死に至る病』である。</p><p>&gt;&gt;<a href=3.htm>次頁へ進む</a></p><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：2：<a href=3.htm> 3 </a>：<a href=4.htm> 4 </a>：<a href=5.htm> 5 </a> 】</div><div>─<br>─</div><div align=right>&copy; <a href=../../copy.htm>ayanori.jp</a><br>─<br>─<br>[△<a href=#top>PAGE TOP</a>]<br>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>[<a href=../../map.htm accesskey=0 directkey=0 nonumber>MAP</a>]</div></font></font></body></html>