<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>自己定義の定義 [2/3]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>&or;<br>[<a href=../index.html>研究レポート目次</a>]<br>&or;<br>[005]</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3>自己定義の定義 [2/3]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</div><div align=center>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：2：<a href=3.htm> 3 </a> 】</font></div><p>　最早、判断を他者に委ねた他律性は寸毫も残存してなどいない。ここには宗教原理、経済原理等あらゆる他者言及的規範、コンテクスト理論<font size=1>(*)</font>の全排除による自己原因的、自己触媒的な芸術性原理があるのみである。他者産出者は自己と作品の間に把捉しがたき質的飛躍があろうとも自ら産出した他者的構造を自己構成要素へと帰属させる定義項を持たなければならない。同時に被伝達者、オーディエンスには定義項の開示要請の権利と義務がある。コミュニケーションに於ける確認プロセスは絶対的規範として要請されねばならない。何故なら構造即意味は事実錯誤だからである。コミュニケーションの本質とはモノローグであり、情報伝達不可能性が前提となっているが故に我々はコミュニケーションという概念を持ち得るのである。構造即意味が事実ならば初めより我々はコミュニケーション行為を行う必要性などあり得ず、言明行為を行うことすら不可能となり、『私』の永劫不在となる。</p><p><font size=1>(*)　フレーゲ［1884］（土屋俊　野本和幸　三平正明訳）「算術の基礎」フレーゲ著作集2所収　勁草書房2001　43頁。</font></p><p>　システム／構造の中間に存在する『／』は共存関係でもなく物質的相互浸透的関係でもなく、質的飛躍による臨在関係を表現している<font size=1>(*)</font>。臨在関係とは方向性を指示指向する対応関係と意味内容の充足関係の区別によって成立する接続である。システムと構造は端的に恣意的<font size=1>(**)</font>と記述されるようなオプティミスティックな関係ではない。システムは構造に対し質料的な確定記述を行っているわけでもなく、構造はシステムに対し先行的な選択圧を分与し制約しているわけでもない。システムは相互の論理関係を無矛盾に整合させるよう自ら要素をミスリードし自己欺瞞的なロジックを創発することによってシステム／構造を臨在関係化しているだけである<font size=1>(***)</font>。システム／構造の間に不可分の紐帯などあり得ない。しかしそこには不可分なる指向性（フッサール）がある。指向性とは古来よりキリスト神学・三位一体論において聖霊なる神の愛として描写され続け、現代思想に於いても明確な記述、理論なきまま問題視され続けている不可侵領域である。そしてここに表現者の真の力量を測る局面がある。</p><p><font size=1>(*)　H.R.マトゥラーナ　F.J.ヴァレラ［1970,1973,1980］(河本英夫訳)「オートポイエーシス」国文社1991　74頁。<br>(**)　ソシュール［1942］（小林英夫訳）「一般言語学講議」岩波書店1940,1972　98頁。<br>(***)　F.ヴァレラ［1979］（染谷昌義　廣野喜幸訳）「生物学的自律性の諸原理」2・1・1　現代思想vol.29-12　66頁以下。</font></p><p>　伝達不可能性・即・恣意的規範は誤読である。伝達不可能性には構造-環境が前提となっている。自我と非確定項の同発が不可疑の前提となっているが故に背反的な相互行為と伝達不可能性が同等性を保持したまま一律的に存在条件として懐念されるのである。</p><p>　既に表現者の原理はあきらかとなっている。全てを知り得ることなく、多様な可能性を縮減することによって存続を計る臨在存在性である。それ故に我々は表現と生が同義的存在であり、必然の存在である。そしてここから表現者が満たさなければならない条件が最低三項目導出されることになる。構成概念、構造体、それら相互の質的飛躍を関係化する必然性である。その各々に対し表現者は先行的な確定記述を施さなければならず、相互行為を行う者の絶対条件である。そしてこれが「自己定義」の定義項である。</p><p>&gt;&gt;<a href=3.htm>次頁へ進む</a></p><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：2：<a href=3.htm> 3 </a> 】</div><div>─<br>─</div><div align=right>&copy; <a href=../../copy.htm>ayanori.jp</a><br>─<br>─<br>[△<a href=#top>PAGE TOP</a>]<br>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>[<a href=../../map.htm accesskey=0 directkey=0 nonumber>MAP</a>]</div></font></font></body></html>