<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>信仰と前提 [2/3]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>&or;<br>[<a href=../index.html>研究レポート目次</a>]<br>&or;<br>[006]</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3>信仰と前提 [2/3]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</div><div align=center>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：2：<a href=3.htm> 3 </a> 】</font></div><p>　背理法による論証は往々にして論点先取であり何の説明にもなっていないか、どのような概念・ファンタジーすらも論証可能としてしまうものである。そしてアンセルムス以降の中世スコラ神学において盛んに論議された神の存在証明はほぼ背理法によるものである。自然学的因果律による原因連鎖の無限遡行の拒絶である。（この態度表明も縮減者尺度が前提になっていることを忘れてはならない。）</P><p>　トマス・アクィナスの頃にはイスラーム圏から様々なアリストテレスが輸入された。アヴィセンナ（イブン・シーナ）、アヴェロエス（イブン・ルシュド）等、原因論や不動の動者に触発された（アリストテレスではなく）アリストテレスを解釈、敷衍した思想が拡大充満していた。我々の観察対象となる存在者は必ず自己以外、他者による原因によってその存在性を与えられる。それは存在者の原因となる存在者、その原因となる存在者の原因となる存在者、その原因となる存在者の原因となる存在者の原因となる存在者…………という遡源の道を開くことになる。しかし原因が無限に遡行可能ならば面前の存在者の存在事実が論証不可能になってしまう。それ故に第一原因は存在し、それを『神』と呼ぶ。</P><p>　我々はプロタゴラス『人間尺度論』からフッサールを知っている。縮減者であることの特性、条件付きの至上主義の倫理を知っている。トマス・アクィナスが超えられなかった点はここである。超越と縮減の拮抗による『神・学』という形容矛盾のディレンマがトマスの唐突すぎる最後を招来した。（そして時代は神秘思想へ移行することになる。）</P><p>＊＊</P><p>我々は位相空間内に生きているわけではなく、世界に臨在しているのである。モノローギッシュなコミュニケーションをダイアローグ化するのも空転するシステムが自己概念から逆流的に要請される愛による連結保存を可能とするために必然的かつ擬似的に脱・モノローグ化する自己適応の狡知である。本来的に無性である我々が人間的機能の原理や様々なプログラムを産出、自己賦与するには何らかのゼロ・ポイントの設定が不可欠である。人類史とは正にそれを巡っての探究史である。</P><p>　神、王、芸術、科学技術、思想、経済、俗なカリスマやアジテーター、インフォーマルな親族、恋人や友人、意味が剥離した情報自体。古来から現代に至るまで人類は自己を照明するための批判的対照者、その座標軸となる『絶対者』もしくは単なる『他者』、自己と他者のコード担体や端的な捨象項を求めてきた。それが自己も他者も包含しないマージナルな対象は精神のカップリング体として機能し、非支配項である自己対蹠者は自己を摘出する意志を前景化してきた。時代や個人の状況によって対象の質は異なるものの、それらは皆、非同質的縮減者が無根拠であるが故に必然的に行わなければならない形式的な越権行為である。</P><p>　無限の差異、無限のカテゴリーミステイク、非同質関係にも拘らず関係化しなければならないその局面を跳躍するのは知性である。臨在的縮減者である我々は知性の発生までは必然としている。センス・データーは認知者固有のものであり、同定行為に普遍の絶対性などありえない。知性が産出するものは全てが『偽・知』であり、知性の本質とは暴力である。そしてその暴力によって産出されたプログラムを活用することによって多様性を縮減しシステムの活動性を行為化するものが理性である。この段階では暴力は自己回帰的に循環しシステム域に定在している。しかしここに社会・共同体概念が混入しイデオロギー化してくると暴力が恐怖へと変貌する。共同体は社会文脈連接の永続をメルクマールとして社会プロジェクトを行う。それは無根拠である文脈のトートロジーを攪乱隠蔽によって脱トートロジー化する背後要請によるものである。&gt;&gt;</P><p>&gt;&gt;<a href=3.htm>次頁へ進む</a></p><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：2：<a href=3.htm> 3 </a> 】</div><div>─<br>─</div><div align=right>&copy; <a href=../../copy.htm>ayanori.jp</a><br>─<br>─<br>[△<a href=#top>PAGE TOP</a>]<br>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>[<a href=../../map.htm accesskey=0 directkey=0 nonumber>MAP</a>]</div></font></font></body></html>