芸術性理論研究室
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複雑性の拡大について [1/5]
ayanori [高岡 礼典]
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 システムは無限であり、かつ無限ではない。システムは有限ではなく、かつ無限ではない。

 システムはパラドクスやトートロジーを用いた否定神学以降の神秘神学的にしか記述できない。システム論は往々にしてシステムを前提化した論点先取で彩られている。なぜなら自己意識にとってシステムとは無媒介な環境であるからである。自己概念である形式/内容は構成素域に属するものであり、それがシステムへ干渉しては記憶的な保存現象の説明が不可能になってしまうであろう。仮にそれを否定すると、現段階の素因が次の段階においてデコード不可能な非自己として排除される現象が不断に起こることを意味してしまう。我々がどれほどに非線形的、非同一的に振る舞おうと、何らかの同一的記述が可能であるということを忘れてはならない。無意味な現行為の意味化可能性はシステム存在の無謬性によって保証されている。それによって我々は不安を抱くことなく複雑性を縮減し、現在行為を選択可能としている。(システムの存在証明は中世神学における神の存在証明と同様に背理法を用いたものである。「何の説明にもなっていない」という批判を黙殺も封殺もすることなく、単に前提化ないし保留することによって現代システム論は研究されている。)

 N・ルーマンによって術語化された「複雑性の縮減」というジャーゴンはハイデッガーを越え(*)、クザーヌスへまで遡源可能である。行為主体の選択による飛躍の局面を叙述する重要な鍵概念である。ルーマンは保留された可能性に対しては論述してはいるが、多様な可能性を縮減する原理については黙視していると思われる。以下の小論はその局面について述べたいと思う。

(*) ルーマンの著作にハイデッガーの引用は見当たらない。

 初歩的な確認を述べる。まず、ここで言う「複雑性」とは「ほかでもあり得る可能性」という意味である。世俗界にあふれる「自由な行為」という言葉は理論界においては形容矛盾であり、それは生を寸毫も意味しない。自由とは可能性群が枚挙された未規定的な生以前の論理段階を意味しているのであって、行為以前の段階のことである。それは生も死も共に意味などしてはいない。我々が生性を実現化するということは瞬間毎に任意の選択原理によって複雑性を縮減し、任意の選択肢を選択し目的遂行的に行為するという決定連鎖によって可能としている。自由を不自由化すること、それが生である。そのため選択原理によって起動するシステムに必然的行為はありえない。>>

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