<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>肯定系と否定系 [2/3]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>&or;<br>[<a href=../index.html>研究レポート目次</a>]<br>&or;<br>[008]</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3>肯定系と否定系 [2/3]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</div><div align=center>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：2：<a href=3.htm> 3 </a> 】</font></div><p><font size=1>(**)　永遠の王位が利己的に王を交換していくといった描写に以下をあげる。E・H・カントローヴィッチ[1957]　小林　公訳　『王の二つの身体（上下）』　ちくま学芸文庫2003　殊に下巻第七章55頁以下、202-203頁等。<br>(***)　平易なものとして、塚原　史[2000]　『人間はなぜ非人間的になれるのか』　ちくま新書2000</font></p><p>　結論から述べよう。意識対象なるもの全てを価値肯定することは選択以前の論理プロセスと同様に一片の生すら意味しない。『生のリアル』によって充足されるには『否定の力』が必要条件である。事実判断による単なる区別とは異なり、価値判断による区別は自己内容を豊穣充足化する際にその原理を担う重要な枢軸である。前者は対象の射影を忠実に描写しようとする非主体的な観察態度に終止するのに対し、後者では価値規範による対象記述の後に行為規範の編成に影響を与え、主体保存のための帰属項／非帰属項（もしくは内属項／非内属項）を創り出す。前者の対象従事的な非主体性に対して、後者はどこまでも主体による主体のためのものである<font size=1>(*)</font>。価値とはシステムの本来的な無根拠性を脱・トートロジー化することによって擬制的根拠を創造・措定し生の連接を開始するための最終的な論理段階である<font size=1>(**)</font>。ここに普遍的絶対性などありえない。それを反駁するにはシステムの物性、もしくはそれとの不可分性を証明しなければならないが、それは述べるまでもなく稚拙なファンタジーである。</p><p><font size=1>(*)　ここでいう「主体」は近代思想的な創造主的意味ではなく、システム／環境が対応関係に限り連携し、決して充足関係へとは至らない心的システム論的な意味で用いている。<br>(**)　そのため行為や選択とは自己欺瞞的と言わざるを得ない。</font></p><p>　我々は原初体系が非・人間的であったとしても、それがなんらかのシステムとして開始するために事実にしろ価値にしろその規範発生の第一シークエンスは肯定系にならざるを得ない。システムは不可超自的なために確定記述の範囲内に環境・素は含まれない。それは自己域内に限局されている。システム／環境の発生が相互前提的であったとしてもシステムが創発するあらゆる構成素やパースペクティブはシステム自身を不可謬の前提としている。これは誰からも愛されない自己否定系であるペシミストですら同様である。仮に否定系を原初体系と主張するのならば自己創発の契機なきものが如何にして自／他の区別を可能とするのだろうか？仮にそれが存在しても、それは生／死が相互浸透した超越者であり、全観察者を排除する不可認知的なものとなるだろう。規範発生の第一シークエンスにおける肯定系が含意すると思われる否定性は無自覚・無批判的なものであり、原的な存在論の事実説明に相当しても、なんらかの自己を前提としたセカンドプログラムである価値論の説明原理には決して含みようがない。つまり肯定系は生得的なものであり<font size=1>(*)</font>、否定系は肯定系を前段階に前提とし、発生契機の因子とした後天的な獲得項である。これが非普遍的かつ浮遊的な獲得項であるために狂信的な我執や没自的な博愛といった個体差があることになる。またこれが獲得項であるということは、否定性が『人間』の必要条件であるということも含意している。肯定するは容易い。しかし否定するは困難である。それは暫定的にしろ、あり得ないスタティックな自己を前提（狂信）としているためである。</p><p><font size=1>(*)　そのため古代において「肯定・存在（である）」と神が同義的に扱われ、「生得観念」といった誤謬概念が生み出されたのである。「神」や「生得観念」とは心的システム論においては無内容なシステム形式を意味している。</font></p><p>&gt;&gt;<a href=3.htm>次頁へ進む</a></p><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：2：<a href=3.htm> 3 </a> 】</div><div>─<br>─</div><div align=right>&copy; <a href=../../copy.htm>ayanori.jp</a><br>─<br>─<br>[△<a href=#top>PAGE TOP</a>]<br>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>[<a href=../../map.htm accesskey=0 directkey=0 nonumber>MAP</a>]</div></font></font></body></html>