<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>肯定系と否定系 [3/3]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>&or;<br>[<a href=../index.html>研究レポート目次</a>]<br>&or;<br>[008]</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3>肯定系と否定系 [3/3]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</div><div align=center>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：<a href=2.htm> 2 </a>：3 】</font></div><p>　価値規範のプログラムを肯定系のみに設定することは、そこにある境界を黙殺し、系を決して閉ざすことなく不断に可能性を拡大充足していく。不可知のものすら価値ある可知のものとして絶え間なく取り込んでいく。それは不可能なき超越者・神の所業である。思想の自由が保障され、自己を神的概念と同等視することによって自己把捉なき生を送らざるを得ないために、現代社会に空虚が慢性していることなど当然至極の事実である<font size=1>(*)</font>。不可能を不可能として無価値を無価値として規定的に構成しなければ『自己の生のリアル』などあり得ないことを知らなければならない。</p><p><font size=1>(*)　つまり『生のリアル』の社会的発生契機やコンセンサスを求める者がいるのならば、その者のアジェンダとは「思想の自由」の廃止ということになる。</font></p><p>　否定とは無理解・無批判に対象を拒絶排除することを意味しているわけではない。無前提な肯定にそれが可能であっても、肯定といった論理的段階を遷移しなければあり得ない否定には、その界面に自己措定が創発するため必然的に何らかの事実的認知が伴っている。否定と自己の相発関係によって否定による判断内容は淘汰的選択となる。つまり否定とは他者尊重的な知的判断なのであり、称揚すべきプロセスなのである。中世神学者らは神的概念の超越・普遍的特殊性の述定を無言及といった否定神学によって成功した。それに対し現代に生きる者は否定神学によって他者と自己を理解・創造するべきである。博愛や民主主義、共生など全包括的なイデオロギーの全てが人間を叙述することすら出来ない自惚れた矮小者による不安隠蔽の弥縫策に過ぎない。その劣弱なエートスは人と神的概念の定義項を取り違えた大衆をさらに拡大生産し続けることだろう。</p><p>　我々は自己の部分をかろうじて知り、他者を永劫に知らないことを再確認する。そして未だにディオニュシオス・アレオパギテスの祖述から逃れられずにいることも知らなければならない。</p><p align=center><font size=1>METAFORCE ICONOCLASM 2004<br>ayanori [高岡 礼典]</p><div align=center>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：<a href=2.htm> 2 </a>：3 】</div><div>─<br>─</div><div align=right>&copy; <a href=../../copy.htm>ayanori.jp</a><br>─<br>─<br>[△<a href=#top>PAGE TOP</a>]<br>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>[<a href=../../map.htm accesskey=0 directkey=0 nonumber>MAP</a>]</div></font></font></body></html>