<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>肯定系と否定系 [1/3]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><strong>芸術性理論研究室<br><font size=3 color=#646f76>M<font color=#667077>e</font><font color=#677279>t</font><font color=#68757c>a</font><font color=#60777e>f</font><font color=#717b82>o</font><font color=#747e85>r</font><font color=#7a8389>c</font><font color=#80898f>e</font><font color=#889096> I</font><font color=#8e9698>c</font><font color=#959da1>o</font><font color=#9ea5a9>n</font><font color=#a7adb1>o</font><font color=#b0b6b9>c</font><font color=#b6bcbf>l</font><font color=#bdc2c5>a</font><font color=#c7c8ce>s</font><font color=#d6d9da>m</font></font></strong></div><div align=center><font size=1>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>&or;<br>[<a href=../index.html>研究レポート目次</a>]<br>&or;<br>[008]</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3>肯定系と否定系 [1/3]</font></div><div align=right><font color=#351923>ayanori [高岡 礼典]</font></strong><br><font size=1>─</div><div align=center>【 頁：1：<a href=2.htm> 2 </a>：<a href=3.htm> 3 </a> 】</font></div><p>　遍在する構成要素を統合し社会という系を形作ることが第一目的であった未開社会において価値規範の発生原理は事実超越型であった。共通了解的な概念の拡充なきまま本来的に多様な可能性を所有した自然的人間を肯定することは「結束された社会」へとオリエンテートできないためである。そこでは徹底して人間を否定しなければならない。非境界的な自然状態に浸透した未定義、未規定な多数者へ王や神的概念といったエントロピー<font size=1>(*)</font>を投入することによって種差を産み出し社会システム固有のダイナミズムを獲得編成するにいたった。接近しようにも接近できない不可侵なる永遠の超越者<font size=1>(**)</font>を志向対象とすることによって共同体社会は永続するかに思われたことであろう。それに対して現代社会が採択している価値規範の発生原理は事実即規範型である。社会が複雑に環節化、機能的分化を果たし個々の複雑性が極度に縮減することによって余暇を持て余した者たちが帰着した結論とは超越者への接近不可能といったファンタジーによる欺瞞の暴露ではなく、意識構成素域にオートノミーを発生させることの困難さへの挫折、放棄である。それは自己内容への敗北であり、境界否定であった。そこではありのままの人間を肯定しなければならない。これが科学による演繹的方法論が大衆に圧倒的加速度をもって受容され市民革命を惹起させた要因であると考える。境界否定が原理になることによって全肯定的な思想が発生し、民主主義、博愛、平和、平等、思想の自由化、グローバリズム、共生、等々が流布したことは周知のとおりである。一般的に他律的人間社会から自律的人間社会へと変遷したように素描される人類史批判の定説を本研究室においては却下する<font size=1>(***)</font>。現代社会が獲得するに至ったものとは自立であって自律ではない。自己触媒的な自律者といった神的概念が（絶対的にしろ無謬的にしろ）統合原理として社会的有効性を保持していた近代社会のほうが反省的志向性が個々の思索の俎上に定在していたという意味で自律的だったのであり、多数者による多数者支配の現代において特殊性は構造維持的なエントロピーになり得ても、個々の強度を増幅させる規範にはなり得ていない。現代に謳われる安易な自己肯定は形式肯定であって内容的なものではない。この局面を捉え損ない続けることによって産み出されるアイデアや社会構造的充足は何をやっても満たされず、生のリアルなど感じることができずに自傷行為が流行ってしまうような徒花満開の社会を継続するだけである。以下に現代社会が選択してしまった誤謬、その事実即規範による価値を構成する原理である全肯定系のリスクを指摘したい。</p><p><font size=1>(*)　本研究室において「エントロピー」という言葉は排除すべき負のエネルギーといった意味ではなく、ことわらない場合に限り主に没個性的かつ静的な多数項を攪乱することによって反省性を誘発させる免疫担体というプリコジン的な意味で用いられる。I.プリコジン／I.スタンジュール［1984］　伏見康治・伏見　護・松枝秀明訳　『混沌からの秩序』　みすず書房1987</font></p>
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