<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>形式と内容について＿死の記述不可能性 [3/4]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>&or;<br>[<a href=../index.html>研究レポート目次</a>]<br>&or;<br>[002]</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3>形式と内容について＿死の記述不可能性 [3/4]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</div><div align=center>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：<a href=2.htm> 2 </a>：3：<a href=4.htm> 4 </a> 】</font></div><p>　多くの方々がこれらの記号化された命題を提示されると分かりきったことだと笑うかもしれないが、笑える者などほんの一握りであることを知って頂きたい。コミュニケーションは反省を促すが、自己行為の最中において我々は通常、反省を欠くものだからであり、行為後に前行為を反省するとは限らないからである。理論を蔑ろにした、前提豊かな者ほど単純な誤謬倫理を平然と主張し、またそれに気付かずにもいる。</p><p>　システムが自己を成立させるために必ず行う境界化という擬似的自己死が社会的暴力命題を生み、軋轢を生み、時には殺し合いという多くの死を生み出すことに加担してもいるのである。我々は形式／内容の区別を截然と行わなければならない。これは心的システム論の役目である。</p><p>＊＊</p><p>　「人間」に神的概念の定義項が賦与されることはありえない。神的知による対象Aの知識とは対象Aの射影aを見ると同時に射影b、c、d、e、、、、、と対象Aを包囲する全ての視点をとることであり、さらに対象Aの時間軸上にある全ての射影を知るということである。ここに視点などといった可能性は存在しない。我々は必ず一方向からの視点を持ち、パースペクティブを超えられない存在であるがために神的な知識を得ることはできない。現代における同一地平を前提とした安易な経験論者が主張するような「未知であるが故の全知可能性」は人類知らずの戯言と言わざるをえない。全知可能性に可能性が含まれないことを知れば、可能的存在に全知が含まれないことは用意に知るとこである。全知と可能性は排他選言的な関係にあるのである。この人間性の縮減性を換言するのならば、それはまさに『システム』である。</p><p>　「閉じていなければシステムではない」という基本命題は人間を人類へと昇華させる。閉鎖性は区別を指示し、区別は選択を指示する。人間は絶え間なく多様な可能性の中から一つの選択肢をえらび、自己にとって必要／不必要を取捨選択し、自己と他者（非自己）との区別を行わなければ生を意味しない存在である。この古典的な選択原理は現代システム論において、更にドラスティックに調整されることによって、その普遍的妥当性を得るまでになっている。単純な選択に他者は含まれないが、区別によって始まるシステム論は他者を如何に含まないか、他者へとアプローチできる限界はどこまでかを厳密に吟味する。この理論を研究するということは多元的一性を構築し、不断のセルフ・ディベートを行う契機となり、頑強な社会デッサン力を養うことになる。</p><p>＊＊＊</p><p>　我々が通常記述する死とは環境変化の「部分」である。それは観察されたものでしかない。観察記述は制度化された一言語記号によって代表されるが、環境全体との連関によって成立する部分であるために他者との共通了解にはなり得ない。「他者と連関する死」と他者による「自己と連関する死」が同等であると言えるのは言語という構造共有（カップリング）までである。この観察記述に対象内容は含まれない。それは形式を自己産出しているに過ぎない。形式が同等であるからといって、その形式内容が同等であるとは限らない。否、同等であることは不可能である。複数の形式／内容の同一可能性は自／他の区別を存在論的に否定することになる。描かれた死はオーディエンスに死を伝えず、伝えてはならないのである。</p><p>　年表化された歴史に心は残らない。時代を先導（煽動）し、代表した文学・芸術があまねく全ての心的な特殊内容を表徴しているわけではない。市場原理によって作られたプロブレマティックが有意義といえるものを全て掬いあげるわけでもない。死は誰にでも等しく訪れる「形式」である。だが我々がモータルな存在だからといって、その死が含意する『内容』は誰にも決定できないものである。ここで我々は改めることになる。</p><p>&gt;&gt;<a href=4.htm>次頁へ進む</a></p><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：<a href=2.htm> 2 </a>：3：<a href=4.htm> 4 </a> 】</div><div>─<br>─</div><div align=right>&copy; <a href=../../copy.htm>ayanori.jp</a><br>─<br>─<br>[△<a href=#top>PAGE TOP</a>]<br>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>[<a href=../../map.htm accesskey=0 directkey=0 nonumber>MAP</a>]</div></font></font></body></html>