<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>形式と内容について＿死の記述不可能性 [4/4]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>&or;<br>[<a href=../index.html>研究レポート目次</a>]<br>&or;<br>[002]</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3>形式と内容について＿死の記述不可能性 [4/4]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</div><div align=center>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：<a href=2.htm> 2 </a>：<a href=3.htm> 3 </a>：4 】</font></div><p>　メメントモリという使い古された幼稚な命令形に対し、心的システム論は「死は想うものではなく想われるもの」と言わなければならない。死は超越現象であり、自己記述域外のものである。</p><p>　自己の生はそれだけで端的に他者の自由を奪う。自己がある限り他者は永劫に自己の場へは移行できない。観察記述による死は観察者へ行為可能性の自由の契機を与える素朴な現象に過ぎない。</p><p>&nbsp;</p><p>＊＊＊＊</p><p>付記＿死と自殺への言及権</p><p>　「・・・誇りある仕方で生きることがもはや可能でないときには、誇りある仕方で死ぬことが大切です。<font size=1>(*)</font>」</p><p>　「われわれは生み落されることを自ら阻止することはできません。だが、われわれはこの過失──なぜなら生まれることはときに過失であるからです──を後からもう一度償うことは出来るのです。もし人が自分で自分を除去するなら、この世に存在する限りの最も尊敬に値することをなし遂げたことになるでしょう。<font size=1>(*)</font>」</p><p><font size=1>(*)　ニーチェ［1888,1969］偶像の黄昏(西尾幹ニ訳)『偶像の黄昏/アンチクリスト』所収　白水社1991　116頁以下。</font></p><p>　たしかに我々は生の発生契機を支配下におさめることはできない。しかし生は自己の発生によって被支配項となる。「自己」は自然科学的「人類」と「個体」の間に「関係概念」という亀裂をいれ、分化する。この階梯に至り自己は自我の影を知り、求心的な動作を開始する。我々は構造によって支配を受けるが自己意識によって決定論をすり抜けている。</p><p>　「しかし関係概念を導入しようとも、それが弁証法的反復転倒を引き寄せる限り、主意主義的な主張には普遍妥当性はあり得ない」という批判は自立と自律の区別によって斥けられる。</p><p>　分析的に綜合した生の非対称性に気付く時、我々はささやかな自己への抵抗を試みることになる。識閾下にあるアポトーシスは個の生を描き、事実への恭順はそれを苦しみのない死へと至らせる。生は死への目的論でもなく、死を排除するコードでもない。<strong>快楽が生の目的なら死はあり得ない。死が目的なら生の文脈はあり得ない。</strong>生きているが故の苦痛であり、死なのである。</p><p>　我々はアウグスティヌスや一般化されたシステム論に対してこう言わなければならない。生のコードは生を前提にし、生と非生を区別しているだけではなく区別したものを共に内包していると。ここで生のコードが死のコードへ換言できないことは「死のコード」が形容矛盾であることを知ればよい。死はそもそも前提になり得ずコードを産み出しようがないからだ。しかしそれでもなお我々は死を学問的対象とすることができず、自殺という死の選択が自己の生であるとは同定できない。それは死の形式を選択しているとは言えるが、死の内容記述を可能としている保証はあいかわらず理論付けられないためである。</p><p>&nbsp;</p><p>　世界から自己をえぐり出してしまった思想家に反して我々は学問の外にしか自殺への言及権はあり得ないと言わざるをえない。</p><p>&nbsp;</p><p>＊＊＊＊＊</p><p>付記＿2</p><p>　喜びに喜ぶ必要などなく、恐怖に恐怖する必要などなく、悲しみに悲しむ必要などもない。自由にならないものはただ黙ってそっと受容すればいい。ただそれだけで我々の論理世界は静かに自己を受け入れてくれる。ただそれだけで世界は自己をとりまき、『私』を形作ってくれる。</p><p>　それは決して自己欺瞞を意味しない。操作不可能なものに隷従することが嘘ならば、人は人であろうとすることすら幻想になる。自由／不自由の峻別は最大の枷を取り払い、選択可能な自己の範囲を確保する前人類的な予科である。</p><p>　そして、始まりも終わりも知ることのない我々は、ここで古来よりある神的概念の定義項を人へとまた一つ回収することになる。</p><p align=center><font size=1>METAFORCE ICONOCLASM 2005<br>ayanori [高岡 礼典]</p><div align=center>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：<a href=2.htm> 2 </a>：<a href=3.htm> 3 </a>：4 】</div><div>─<br>─</div><div align=right>&copy; <a href=../../copy.htm>ayanori.jp</a><br>─<br>─<br>[△<a href=#top>PAGE TOP</a>]<br>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>[<a href=../../map.htm accesskey=0 directkey=0 nonumber>MAP</a>]</div></font></font></body></html>