芸術性理論研究室
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形式と内容について_死の記述不可能性 [1/4]
ayanori [高岡 礼典]
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 死を想う時、我々は不安(予測不可能性・ハザード)と恐怖(形式的絶対性・リスク)の前に怯え、無力を感じる。死は誰もが最後に経験する普遍現象として我々を不動のごとく待ち伏せる。死は最大のインパクトを与えるがために、古来より大衆を統合する原理・テーマとして、今もその有用性をもち得ている。しかし心的システム論において死は言及不可能な捨象項である。以下に留意してほしいのはシステムがアポトーシス的な自死機能をもち得ないことを主張しているわけではなく、死による内容的構成を不可能といっているに過ぎない点である。我々の自由意志は古来より自殺の可能性を保証している。

 ここでいう死は、それまでのシステムの残映や残滓を一切残さない現象であり、境界再構成によるシステム変貌を意味しない。我々が一般的に経験するパラダイムシフト等による、ときにはペシミスティックなその死はそれまでの自己を反省的に含み、文脈化可能であるという点において死ではない。死は構造を再構成するといえるが、死とシステムは範疇を異にしている。

 システムが自己をシステムとして自己記述するには、それが起動していることを前提としなければならない。我々が様々な対象を認知し、感じ、知ることができ、概念系を紡ぐことができるのは、言うまでもなく我々が今この一瞬を生き、次のフェイズへ結節させる可能性の確信と、その一瞬をむかえるまでの記憶の連続性があるがためである。もし我々が静的な存在ならば単語Pについての説明文はPという単語のみで終わり、そこにはなんの述語も付加されないことになる。アリストテレスからフレーゲやフッサールへと継承され続けるコンテクスト理論を内属項として認めなければ我々は何の『意味』も保ち得ない連続者であり、自体者などではない。つまり死の記述不可能性を論ずるにはハイデガー(〜デリダ)のように「経験」というスタティックな言葉を用いるのではなく、『自己産出』ないし『創発』不可能であるがためと言い直さなければならない。

 システム/構造間にある相互浸透性について理論的理解を得ていない我々にとって、死は超越概念である。そのために不死の魂といった概念が生まれもし、宗教化することによって現代の統合された社会を成立させもしたのだが、学術域においては詳述も自明性もなきものに「真の値」を与えるわけにはいかない。我々は理神論的態度によって、ただその事実を記述するにとどめなければならない。

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