<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>構成素の集合間における関係性について [2/4]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>&or;<br>[<a href=../index.html>研究レポート目次</a>]<br>&or;<br>[010]</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3>構成素の集合間における関係性について [2/4]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</div><div align=center>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：2：<a href=3.htm> 3 </a>：<a href=4.htm> 4 </a> 】</font></div><p><font size=1>(**)　ここでいう「前提」とは必ずしも『知』を含まない。文学趣味的なポランニー流の「暗黙知」というタームはミスリーディングであるので使用を避ける。システムによる『知』とは自己産出したもののみである。それは他者でも他我でもなく他者一般でしかない。</font></p><p>　もしそこに「〜でなければならない」が含まれるというのならば、我々は荒廃した帝国や枯れ行く自然を描けないはずである。事実に当為が含まれるということは事象変化に伴い倫理も変化するということである。「〜でなければならない」といえるのはそれに反する可能性を共時的に描けなければならない。可能性自体を観察することは不可能であるがために、事実とは端的なものであり、可能性を含まない脱反省的なものである。もし事実が価値を司るのならば、それは価値ではなく事実判断の連続でしかない<font size=1>(*)</font>。</p><p><font size=1>(*)　事実即規範的に生きることは最適合によって生き残ることができるが、意味を産出・把持できないためにそれは非自律的生となる。「生き残る」ことと「価値」とは本源的に類を異にしている。</font></p><p>　我々が描きうる構造空間とは三次元を原理にしているがために必ず位階秩序は存在することになる。前提豊かな批評家が軽々しく「ヒエラルヒー」という言葉を用いる時、多くの場合、同語反復の批判を展開する。それは価値判断には遠く、事実判断にすらならない空虚なディスクールである。以下に多くの方々が通常区別しないハイアラーキーについてのより厳密な記述を行うことにする。</p><p>＊</p><p>　そもそも我々の心的現象域にヒエラルヒーなど存在しない。位階的な思考枠とはヒエラルヒー的なモードであって、ハイアラーキーとは構成素間の関係でしかない。厳密には、システム域における空間とは上下も左右もない『延長性なき空間』である。それ故に上位と下位の概念がさらに位階的関係概念によって浸透・結節されていると述べるべきであろう。それは単に概念の上下に別の概念が位置するような「階層構造」などでは決してない。観察によるニューラルネットワークと内観による理論機構は同じ地平上で語ることはできない。</p>
<p>　我々は理解の遅延を回避するため図式を用いることがよくある。言葉よりイラストレーションのほうが効果的であることはありふれた経験である。しかしその場合の現前する「図式」と理解された『図式(シェーマ)』とは本来異なるものである<font size=1>(*)</font>。通常、関係化の習慣化によって気付くことのない局面ではあるが、これが異ならなければ理解と行為の区別ができないことになる。それらの間隙は哲学史上最大のアポリアによって古来より架橋されている局面である。</p><p><font size=1>(*)　また音読と黙読における語の「読み」・「音」も同一のものではない。発話した「あ」と黙読の『あ』はまったく異なるものである。</font></p><p>　ヒエラルヒーとハイアラーキーは相互自律的に発生し、自己を構成するものであり、それらは脱関係的、否、本質的に無関係なものである。ハイアラーキーの実的様相はピラミッド型の構造でも確定的なニッチが構成素になっているわけでもない。ハイアラーキーには要素も位階も存在などしないのである。もし要素がありうるとするなら、それらは相互浸透ではなく相互自己関係的なものであろう。他者記述と自己記述の内容が同一的に連動し、相互に同等の確定性を主張するようなトランス・パラドクス<font size=1>(*)</font>である。</p><p>&gt;&gt;<a href=3.htm>次頁へ進む</a></p><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：2：<a href=3.htm> 3 </a>：<a href=4.htm> 4 </a> 】</div><div>─<br>─</div><div align=right>&copy; <a href=../../copy.htm>ayanori.jp</a><br>─<br>─<br>[△<a href=#top>PAGE TOP</a>]<br>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>[<a href=../../map.htm accesskey=0 directkey=0 nonumber>MAP</a>]</div></font></font></body></html>