<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>構成素の集合間における関係性について [3/4]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>&or;<br>[<a href=../index.html>研究レポート目次</a>]<br>&or;<br>[010]</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3>構成素の集合間における関係性について [3/4]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</div><div align=center>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：<a href=2.htm> 2 </a>：3：<a href=4.htm> 4 </a> 】</font></div><p><font size=1>(*)　パラドクスは無限に循環するからといってルーマン的にシステムの活動原理とはしない。たしかにオートノミーはパラドキシカルではあるが心的システムは同一素を無限産出するわけではないからである。だがクレタ人やゼノンの矢のごとく停止の可能性を用意可能な擬似的なものでもない。パラドクスは論理的に円環をなすが観察可能な時間を指向しない永遠である。円環という比喩がパラドクスとして妥当するのならば、ここでいうトランス・パラドクスとは螺旋に近いものである。しかしそれは高低を持たない座標なきスパイラルである。</font></p><p>　ここで「重層的なリゾーム」という比喩を持ち出したいところだが、それも厳密とはいえない。形態をいかに不確定なものへ変更しようとも縮減性を認知の原理とするかぎり、必ずそれすら静的かつ確定的なものとして可能的に記述してしまうためである。(例えるならばマジックメモ的なコネクショニズムといえば近いのかもしれない。)</p><p>　我々が通常記述しうる知識体としての構成素は素因などではなく、分子的な構成素の集合である。古来より「アトム」という議題が無限後退するばかりであるように、知識体はどこまでも微分することができ、決して原的な構成素へとは辿り着かないためである。また「構成素」ではシステムの自律性を自己言及的に把持可能であることを安易に謳いかねない。そのためここではそれを「<font color=#000000>構成素集</font>」と呼ぶことにする。</p><p>　ファーストオーダーは論理的段階として構成素を産出するといえるが、把握・記述の対象領域であるセカンドオーダー内に原子的構成素は存在しえない。構成素集は境界があるわけでもリゾーム的な不確定な境界をもつわけでもない。誤読を恐れることなく述べるなら、ゼリー状の皮膜のようなものに覆われているといえよう。ターナーがリミナリティーと、ヘーゲルが界域と論述してみせたように境界は思考停止を引き起こす確定的かつ静的な「線」ではなく動的な幅をもつ「領域」である。それは境界線などではなく「動的境界域<font size=1>(*)</font>」と呼ぶべきであろう。なぜなら構成素集はなんらかの情報プールへとストックされる固定的なパッケージではないためである。それが道具的使用を受けるたびに同等性ある新たな構成素集が産出されている。</p><p><font size=1>(*)　ここで動的平衡と呼べるか否かは別の議題である。</font></p><p>　システムは連続的文脈性を絶対的な前提としている。これは常に動いていなければ、それがそれとして成り立たないことを考えれば良い。プリコジンの散逸構造をもちだすまでもなく、ゼノンの矢で十分である。飛んでいる矢にとって構成素とはその瞬間の速度にあたる。しかし「その瞬間の速度」など我々は体感といった対象概念を得ることができない。それは十四世紀のニコル・オレーム以来慣習化された数字という形象を賦与する外延化の権謀によって、限局的な概念認識を行っているに過ぎず、一片の対象性なきものである。連続的に位相の変遷があるがために速度をもちうるものであろうと可能性として推測しているのである。これはシステムの文脈性を説明する比喩としてあてはまるものである。</p><p>　対象性なき概念と文脈性との相克についてだが、それはアリストテレス的に今、思惟する『A』と以前に思惟する『A』は異なるものであることを考えれば良いことである。システム域における文脈とは反省可能であっても字義通りに遡源することなどできない。反省とは「以前の自己」を見るような反復行為ではなく新たに産出され、同等化された構成素集を見るといった初験である。&gt;&gt;</p><p>&gt;&gt;<a href=4.htm>次頁へ進む</a></p><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：<a href=2.htm> 2 </a>：3：<a href=4.htm> 4 </a> 】</div><div>─<br>─</div><div align=right>&copy; <a href=../../copy.htm>ayanori.jp</a><br>─<br>─<br>[△<a href=#top>PAGE TOP</a>]<br>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>[<a href=../../map.htm accesskey=0 directkey=0 nonumber>MAP</a>]</div></font></font></body></html>