<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>構成素の集合間における関係性について [1/4]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><strong>芸術性理論研究室<br><font size=3 color=#646f76>M<font color=#667077>e</font><font color=#677279>t</font><font color=#68757c>a</font><font color=#60777e>f</font><font color=#717b82>o</font><font color=#747e85>r</font><font color=#7a8389>c</font><font color=#80898f>e</font><font color=#889096> I</font><font color=#8e9698>c</font><font color=#959da1>o</font><font color=#9ea5a9>n</font><font color=#a7adb1>o</font><font color=#b0b6b9>c</font><font color=#b6bcbf>l</font><font color=#bdc2c5>a</font><font color=#c7c8ce>s</font><font color=#d6d9da>m</font></font></strong></div><div align=center><font size=1>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>&or;<br>[<a href=../index.html>研究レポート目次</a>]<br>&or;<br>[010]</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3>構成素の集合間における関係性について [1/4]</font></div><div align=right><font color=#351923>ayanori [高岡 礼典]</font></strong><br><font size=1>─</div><div align=center>【 頁：1：<a href=2.htm> 2 </a>：<a href=3.htm> 3 </a>：<a href=4.htm> 4 </a> 】</font></div><p>　社会的位階秩序は古来より様々に批判され、多くの国家において投打され代換として民主主義を原理とした「自由」の体系を措定したと一般的にいわれる。果たして我々は自由が妥当する全抱括的社会を獲得したのだろうか。また、それは人類にとって運営可能かつ普遍的有効な概念装置といえるのだろうか。</p><p>　理論至上的に考えれば、その起源は身体構造にあるといえるかもしれない。我々の身体構造は上部に脳や顔といった、その個体を代表する重要な要素を配置している。そのために「上」を価値あるものとして、「下」をなきものとして描くは必当然的と思うことができ、上位下位といった位階秩序は不可避の絶対的原理と思うことができる。また上位にあるものは下位にあるものを基礎付け制御・支配するものであり、上位なしに下位はないとすら思える。これらの帰趨は現行社会において当然のごとく見受けられ、絶対的に描かれ、またそれなりの有効性を発揮してもいる。しかし構造主義的な綜合的判断は永劫に有効なものなのであろうか。</p><p>　ここで変えることを前提にして仮に我々が現在の身体構造とは上下関係を逆にしたものであったのならば、位階秩序は転倒するであろうとする推測は早計である。構造を作りかえようと機能的シフトがない限り、我々は「下」を『上』、「上」を『下』とするような新たなコードを配分し変わりのない無矛盾な行為を可能とするだろう。この対象と認知レベルの有機的対応関係性は認知科学が饒舌に物語ってくれている。哲学史的には、別の側面からではあるが「モリヌークス問題<font size=1>(*)</font>」が良く知られている。</p><p><font size=1>(*)　ライプニッツ[1765]『人間知性新論』　米山　優訳　みすず書房1987　103頁以降。または中村雄二郎[1979]『共通感覚論』岩波現代文庫2000　殊に第二章。</font></p><p>　ここではヒエラルヒーとはハイアラーキーを操作不可能とした乖離概念である。これは構造操作は倫理内容産出の原理とはなりえないことを意味し「法」と規範は本来的に共約不可能なものであることを示唆している。さらに教育の概念を根底から揺さぶるものでもある。</p><p>　構造的位階秩序(ヒエラルヒー)とシステム的位階秩序(ハイアラーキー)を同一原理によって描写批判することは非本来的であり、誤読を招来する。ここで述べている構造的位階秩序とはベルタランフィーによって「構成的<font size=1>(*)</font>」と描写されたものを意味している。それは構成する要素が機能によって区別された全体であり、全体を前提<font size=1>(**)</font>とした部分によって構成される質料群である。これらの要素群にある関係性はすべて座標軸による数値によって位相化することができる。しかしその数字に価値は含まれない。数学のトリックを巧みに用いて、いかに要素自体の強度を外延化しようとも、そこに『当為』はない。</p><p><font size=1>(*)　フォン・ベルタランフィー[1968]『一般システム理論』　長野　敬・太田邦昌訳　みすず書房1973　50頁以降。</font></p><p>&gt;&gt;<a href=2.htm>次頁へ進む</a></p><div align=center><font size=1>【 頁：1：<a href=2.htm> 2 </a>：<a href=3.htm> 3 </a>：<a href=4.htm> 4 </a> 】</div><div>─<br>─</div><div align=right>&copy; <a href=../../copy.htm>ayanori.jp</a><br>─<br>─<br>[△<a href=#top>PAGE TOP</a>]<br>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>[<a href=../../map.htm accesskey=0 directkey=0 nonumber>MAP</a>]</div></font></font></body></html>