<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>無根拠性について [1/4]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><strong>芸術性理論研究室<br><font size=3 color=#646f76>M<font color=#667077>e</font><font color=#677279>t</font><font color=#68757c>a</font><font color=#60777e>f</font><font color=#717b82>o</font><font color=#747e85>r</font><font color=#7a8389>c</font><font color=#80898f>e</font><font color=#889096> I</font><font color=#8e9698>c</font><font color=#959da1>o</font><font color=#9ea5a9>n</font><font color=#a7adb1>o</font><font color=#b0b6b9>c</font><font color=#b6bcbf>l</font><font color=#bdc2c5>a</font><font color=#c7c8ce>s</font><font color=#d6d9da>m</font></font></strong></div><div align=center><font size=1>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>&or;<br>[<a href=../index.html>研究レポート目次</a>]<br>&or;<br>[011]</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3>無根拠性について [1/4]</font></div><div align=right><font color=#351923>ayanori [高岡 礼典]</font></strong><br><font size=1>─</div><div align=center>【 頁：1：<a href=2.htm> 2 </a>：<a href=3.htm> 3 </a>：<a href=4.htm> 4 </a> 】</font></div><p>　文学から学問へと至るまで今も色濃く纏綿し続けるキリスト教思想を理解するために新共同訳聖書を開いてみたはものの、その前評判とは裏腹の空虚な内容に落胆された方は多いことと思う。「人や宇宙の真理」などといった空想めいたものから現代生活においてもなお有効な徳を得ようとしても聖書にそのようなものを期待することは行為的カテゴリーミステイクであり、かつてアウグスティヌスが嘆き唾棄したように無為な読書に時間を費やすばかりである。</p><p>　「創世記」冒頭において理論提示をしたのち「なぜあれだけ膨大な歴史記述に徹するのか」「なぜ特に内容のない系図や出自の叙述にページをさくのか」といった疑問はキリスト教が生まれた歴史背景や多くの宗教がうけることになった政治的な活用法を知ればある程度は納得いくことだろう。以下は経験的にではなく論理レベルからこの一般学説を描写しなおすとともに、システムの無根拠性・無性を考察するものである。</p><p>　宗教発生の原初目的とは社会統合による集合の構築を眼目としたものであると通説的にいわれる。歴史年表の上になぜわざわざ「政教分離」などといった言葉があるのか考えてみれば容易に示唆を受けることであろう。しかしそれだけが目的ならば宗教ではなく武力による脅威でも可能なことであり説明として完全ではない。構造主義的に動機付けを論説してもインセンティブ(誘因)の枚挙では、なぜ社会が自律的ダイナミズムを得ているのか説明ができない。外部情報の入力によって行為の充足的決定が可能なら現行の社会空間にコンフリクト／パラドクスなどといった言葉はないだろう<font size=1>(*)</font>。生命を自在に操作できない以上、我々の作品と世界の間には「静と生」の区別があることを知らなければならない。</p><p><font size=1>(*)　多くの具象的態度をとる芸術家・学者が勘違いしている点であるが、作品とは認知情報と対応するものとして作家によって定義された未制度の記号であって、「見たもの」自体を描き写しているわけではない。もしそれそのものを描写しているのなら「花の絵」はやがて花のように枯れることであろう。</font></p><p>&gt;&gt;<a href=2.htm>次頁へ進む</a></p><div align=center><font size=1>【 頁：1：<a href=2.htm> 2 </a>：<a href=3.htm> 3 </a>：<a href=4.htm> 4 </a> 】</div><div>─<br>─</div><div align=right>&copy; <a href=../../copy.htm>ayanori.jp</a><br>─<br>─<br>[△<a href=#top>PAGE TOP</a>]<br>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>[<a href=../../map.htm accesskey=0 directkey=0 nonumber>MAP</a>]</div></font></font></body></html>