<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>自己平衡について＿幸福とはなにか [2/4]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>&or;<br>[<a href=../index.html>研究レポート目次</a>]<br>&or;<br>[012]</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3>自己平衡について＿幸福とはなにか [2/4]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</div><div align=center>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：2：<a href=3.htm> 3 </a>：<a href=4.htm> 4 </a> 】</font></div><p>＊</p><p>　不意に「幸せですか」と問われた際に多くの方が「はい／いいえ」と即答するには複雑で重層的な論理プロセスを経なければならず、逡巡のシークエンスを経験していることと思う。他者の言葉を投げ掛けられることによって発生する時計ではかることのできない非物理的な『一瞬のとまどい』は自己の選択項が限定的であることを痛切に思い知らされる重要な局面である。論理的含意がアウェアネスといった積極的意味へと変化し、立ちはだかる刹那に原理と理論的理解の絶対的差異によって鉄槌を打ち込まれ、その修正を余儀なくさせられる。それまで非選択項としていた構成素集を採択項として抽象する際に自覚的な自己言及現象が起きた階梯こそが我々が希求する答を得るための直接の研究材料である。</p><p>　この『はっとする一瞬のとまどい』は日常無自覚に何も考えずにいたために起こるわけではない。もし未定義といった含意が無意味であるのならば現理解とのズレを抱くことなく自己からの反照もなく連続的に受容現象が起こることであろう。「とまどう」といった運動の複眼的な重方向性はシステムが原的に単一体であることの証左である。それが複合的ならば初めから自己対立など産まれることなくパラレルな同一行為が可能となってしまうことであろう。システムは本来的に一元的な自己産出者であるためにセルフコンフリクトがありうるのである。そしてこのセルフコンフリクトにおける論理的な実様相は単なる排他選言的な前選択行為ではなく過去における抽象／捨象項の全てを現在において再産出(創発)する積極的なシークエンスである。ここで捨象項と述べたが、それは不必要なものとして廃棄処分したものでも単なる他者の言葉でもない。『一瞬のとまどい』といった自己懐疑において創発されるものとは現理解を括弧入れすることによって表れる『含意』である。これは現象学的還元的な原理把持へのモードであり、創り出されるものは「理論の理論」である。我々が自律的に自己の強度を整序・調整できる自己組織的な存在であるといえるのは論理段階のひとつに「自／他」ではなく「自／自」の二元的な一元論による擬似的な自己原理への「超えることのない跳躍」現象をコントロール可能な能力として内属しているためである。</p><p>　この超越論的な反省によって我々はここで『幸福』について考察することが可能となる。通常素描される『幸福』とはそれ以上希求して止まないものがない満充の自己状態・アタラクシアである。この訓育によって許されたモードとはシステムの潜在的な「空虚」を前提にし、遍在する環境要素を自己域へと取り込むことによってそれを無化し、バランスをとるといった前現代的・動的平衡的な原理によって機構化されている。自己の原初は「無所有者」であり、それを埋めることを動因とするが、その穴を自己充足することができない「無能者」という定義が前提となり、その現自己と求める自己との空隙を非自己・他者から搾取・略奪することによって完全者となるわけである。ここで「完全者」と述べたが通俗的な幸福理解はあきらかに「脱自(エクスタシス)」の亜種である。主体的に自己を超越するのではなく専制的に他者を自己域へと越境させることによって作り出すシークエンスであるが、次回の動因の産出可能性を主張できないため「脱自」といえる。これが他者準拠的な脱自であるために完全な完全者となることなく無自覚に動因が再度発見されてしまい、非制御的であるがために幸福への違和感の発生を許してしまうことになるのである。</p><p>&gt;&gt;<a href=3.htm>次頁へ進む</a></p><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：2：<a href=3.htm> 3 </a>：<a href=4.htm> 4 </a> 】</div><div>─<br>─</div><div align=right>&copy; <a href=../../copy.htm>ayanori.jp</a><br>─<br>─<br>[△<a href=#top>PAGE TOP</a>]<br>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>[<a href=../../map.htm accesskey=0 directkey=0 nonumber>MAP</a>]</div></font></font></body></html>