<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>自己平衡について＿幸福とはなにか [4/4]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>&or;<br>[<a href=../index.html>研究レポート目次</a>]<br>&or;<br>[012]</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3>自己平衡について＿幸福とはなにか [4/4]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</div><div align=center>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：<a href=2.htm> 2 </a>：<a href=3.htm> 3 </a>：4 】</font></div>
<p>　ここで確認するが平衡の段階とは論理プロセスの最終であり最初のシークエンスである。そのため我々はこの帰結に対し、動因の再産出可能性の機構を加えなければならないように思えるが、連続性を前提にすることによって反動因論から始める現代システム論においてそれは無用である。我々は理論構築の冒頭で既に動因概念を捨てていたことを思い出せば、それが反前提的な叙述であることを知るだろう。即ち平衡とは終わりでも、次へ繋ぐ結節者でもなく、システムにとって同語反復的な自己の存在を知るための「超動的な平常」でしかないものである<font size=1>(*)</font>。</p><p><font size=1>(*)　ここで動因の再産出性を捨てることによって「では現平衡が次回の平衡においてどの位置価を与えられるのか」と問いたくなるかもしれない。しかしシステムは前回のレポートで述べたように超文脈的な現在者でしかないため、過去は現在の亜種として含意するものである。理論機構において産出されるかもしれないし、産出されないかもしれないものへ確定的な部分を与える必要はない。拙論『<a href=../011/index.html>無根拠性について</a>』参照。</font></p><p>＊＊＊</p><p>　心とはいつも独り静かに幸福を産出し励起する。瓦解に思える状況も心にとっては必当然的な日常の平衡でしかない。心は複雑な階梯を経て現在を自己へと向かわせる。幸福とは心にとって『今この一瞬の幅』といった素朴な現象である。</p><p>　それは欲するものを欲しているわけでも、否定しているものを破壊したいわけでもないことを意味している。</p><p align=center><font size=1>METAFORCE ICONOCLASM 2005<br>ayanori [高岡 礼典]</p><div align=center>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：<a href=2.htm> 2 </a>：<a href=3.htm> 3 </a>：4 】</div><div>─<br>─</div><div align=right>&copy; <a href=../../copy.htm>ayanori.jp</a><br>─<br>─<br>[△<a href=#top>PAGE TOP</a>]<br>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>[<a href=../../map.htm accesskey=0 directkey=0 nonumber>MAP</a>]</div></font></font></body></html>