芸術性理論研究室
Metaforce Iconoclasm
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自己平衡について_幸福とはなにか [1/4]
ayanori [高岡 礼典]
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 我々は行為から不可避の存在であるがために、そして行為理由がなければ許されない社会形式に組込まれているがために目的-動因説による自己説明の論拠を万人が持たなければならないように不文律の強圧を受けている。目的-動因説は「目的達成」といった分節があるために人の日常的・本質的な生の連続性をうまく記述することができず、往々にして矛盾を産み出す。生の連続性がもつ本来的な優位性によって、その差異を充足即虚無として描いてしまった我々は無限産出しなければならないような欲望概念を捏造しなければならなくなった。

 しかし際限なく無節操に湧出する欲望動因説に切り替えてみても、行為理由の記述可能性を第三者から排除してしまっては根源的な措定理由に反してしまうために、ここでもまた行為遂行完了を描き出すための反省契機が必要となった。そこで用意された信号が『幸福』である。後述するが幸福概念とは自己の境界域を拡大・延長・無効とした『シークエンスの挟間』である。そのため特別な相互作用を必要とすることなく社会的なハンドシェイクを可能としてしまう脱境界的な自/他同一化を担う中枢原理である。そのため瞬く間にコンセンサスの筆頭となり、無謬の絶対性を勝取り、社会参入権を得るための必要条件となった。アリストテレスの原因説よりはエピクロスの快楽原理の方が通俗的な理解を得やすかったように欲望・充足・幸福の図式は市民権を得るための特別な策は必要としなかったことであろう。

 だがそれがコンサマトリックで安易な概念機構であるがため決定的に描ききれなかった点がある。カセクシス(欲望充足)以後の運動は欲望原理では描きにくい。「欲望が湧く/涸れる」といった比喩があり、またそこに幸福即空虚的イメージが含意されているように第一原理に無限性を与えた場合、その後のシークエンスに前提に反する「分節」を設けてしまうと論述・形容しがたい違和感が発生してしまうのである。

 運動性や変化性あるものですら「言語記号」といったスタティックな媒体を用いなければ表現することができない原的な内属機能性からくるこの拭いきることのできない違和感によって人類史は古来より「幸福とは何だろうか」と問い続けることになったのである。ここで頻繁に取り交わされる『幸福』を日常どのように理論的理解を行なっているのか、またそれがどれ程に原理的に反目したものであるかを掌握することによって新たな有効性を保持した幸福概念のアイデアを以下に提示・再定義する。

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