<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>関係等価性について [3/5]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>&or;<br>[<a href=../index.html>研究レポート目次</a>]<br>&or;<br>[013]</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3>関係等価性について [3/5]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</div><div align=center>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：<a href=2.htm> 2 </a>：3：<a href=4.htm> 4 </a>：<a href=5.htm> 5 </a> 】</font></div><p>　イコーリズムによって抽象される素因はいったい何と等号化され構成素集となるのであろうか。何をたよりにして等価判断が行われているのであろうか。また等価・等号とはいったい何を意味しているのであろうか。これらは現代哲学においてもあまり触れられることがなくなってしまった質的飛躍についての問である。そのため空想めいた論述を想起して嘲笑する方が多く居られるかもしれない。しかし本論は自己域にありながらも背反し続ける素因を包摂するシステムの原様相へと迫ろうとするものであるため、それが諧謔的に終わろうとも避けるわけにはいかない。殊に関係等価原理はこの理なき局面を前景に含むアンチ・オープンソースであるにもかかわらず理論然とした態度をとり続ける不可解なものであるため、是が非にでも糾弾しなければならない。</p><p>　そこで関係等価原理は真理対応説の異文なのかどうか確認することによって凝固した理解に切れ目を入れてみたい。古来よりある排他的な真理論である後者にとっての構成素集とは対象域での脈絡と無矛盾に整合化された文脈概念を意味する。これはその名称が示すように判断のコードを環境や他者が担うことによって条件付きの真理を作り出す非主体的な原理である。それは同一も複合も謳わない消極的なものである。「対応」は常に反証を含意した暫定性ある言葉である点に留意されたい。対応は概念の内容規定を一切含んではいないので真理の再構成可能性を保証している。そのため抱いた真理に対して主張から懐疑、または他者からの反駁までをも許容することができる原理として解釈可能である。つまり真理対応説は関係自体が目的となった系であり、原理を産み出すことなく既知のみを紡ぐ非自己言及的なシステムといえる。それは自己・動因・時間といった概念を不問にしていることになるのだが、これらの帰結は関係等価原理と共約不可能であることを以下に確認し、これを心的システムから還元性を排除する予科とする。</p><p>　等価・等号は対応とは異なり、かりそめの関係化ではなく他者分析的な超同一的関係を意味している。ひとつの様相から全てのメタレベルを枚挙する能力を可能的にも主張できなければ、それは等価・等号を意味しない。対応は誤謬を許すが等号にそれがあってはならない。前者が構造域における関係と類似するのに対して、後者の様相は意味内容同化的な融合の手前で表相を辿り合う。他者を愛撫することが自己域の直知を意味する場合、それを我々は等号と呼んでいるはずである。等価・等号とは同化でもメタ記述でもなく機能的連動の永久保障であり、それは無限換言といえよう。ひとつの計算式がいくとおりものやり方で解答できるように、またひとつの解を導く計算式が無限的的に作成可能であることを我々は消極的にも主張できるように、それはシステムの重層的な構造化を同期的に意味している。等号概念は『神秘的』な自明性を要求するジャーゴンであり、これが機能構造主義と呼ばれたものの実様相である。</p><p>　さらに等価・等号の不可解さはこれだけではなく、規定性を内属させたものであることをここで見落とすわけにはいかない。それはヘーゲル論理学的な『含意』の相をあわせ持っている。例えば我々は「X＝Y」と主張する際に「X ≠A ≠B ≠C ≠D………」といった「それではないもの」を先行的にではなく論理的に知っていなければならないはずである。非自己言及的であるがために自他も環境も無設定にしてしまう対応概念に対して等号には必ず「周りの世界」が並存することになる。不完全な分化のまま第三者の存在を許容する点は等号律に特有な様相といえよう。この局面こそが、等号が全てを不問にしたまま関係を構築する対応とは異なるといえる最重要な点である。</p><p>&gt;&gt;<a href=4.htm>次頁へ進む</a></p><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：<a href=2.htm> 2 </a>：3：<a href=4.htm> 4 </a>：<a href=5.htm> 5 </a> 】</div><div>─<br>─</div><div align=right>&copy; <a href=../../copy.htm>ayanori.jp</a><br>─<br>─<br>[△<a href=#top>PAGE TOP</a>]<br>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>[<a href=../../map.htm accesskey=0 directkey=0 nonumber>MAP</a>]</div></font></font></body></html>