<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>関係等価性について [4/5]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>&or;<br>[<a href=../index.html>研究レポート目次</a>]<br>&or;<br>[013]</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3>関係等価性について [4/5]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</div><div align=center>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：<a href=2.htm> 2 </a>：<a href=3.htm> 3 </a>：4：<a href=5.htm> 5 </a> 】</font></div><p>　ここで環境を第三として位置付けたが、等号は文脈性ある自己ではない一性と普遍的に関係化されて初めて実的な第一シークエンスを迎えるところが「自己ではないもの」の全てを「環境」や「他者」の一言で表す一般システム論とは決定的に異なっている点にも留意されたい。選択／非選択のコードによって始まるシステム論では環境ありきのもとに他者一般が表れるか、もしくは対象外のまま進行するかである。しかし等号律による世界創発に他者の不在はあり得ない。他者との準同一化によって自他概念が産まれ、世界地平に包囲されていく特殊な理論機構であり、伝統的な西洋的理解を超えたものなのである。等号律における「他者」とは我々が理解するような間主観的問題を一切含まない。それは単一のシステムによって複数個の構造体を組織化するようなプラトニックなイデアが垣間見えるようである。</p><p>　初めから他者を届くことのない他我と知りつつも自己確保のために不即不離の関係を必要項とするメランコリックな等号律を知ることによって、それを機構化した関係等価原理を我々は批判することができる。上述してきたように等価・等号による自／他発生の原初段階における「スラッシュ」は通常描くような同一／非同一地(面)を記述原理にしていては知ることのできないものである。等号化された「自＝他」において抽象される構成素集とは帰納的な普遍項のみであることに留意するなら、その間には浸透も間隙もないことに気付く。誤謬を記述外にしている等号律にとって自己と異なる他者の部分はそれがあろうがなかろうが認知真理域の外部へと配置されるため「同一機能による他構造」などといったファンタジーを関係等価原理は矛盾なく組み込んでいるといえる。またそのために等号は動因の再獲得を可能にしなければならないような理論機構であるともいえる。</p><p>　代数によるメタ記述を含まない同一記述(トートロジー)では文脈的な遷移過程がなく意味空間の延長拡大がないため動因再獲得の問題は初めから問われることがないかもしれない。しかし異なる構造体を『同的』に関係付ける等号(同等)は外延の拡大があるため必然的に文脈が産まれ、意味の拡大生産が発生してしまうことになる。自律的な自己定義ができないにもかかわらず特殊をテーマ化できない等号にとって普遍からの乖離は許されない。そこで関係等価原理がいかにして自浄するのか考察してみると、それは改竄的な再構成を試みているしかないように思える。意味や可能性を不問にした対応では、そのつど関係構造を紡ぐことができれば良いので文脈からの飛躍からあらわれる過去との整合的な結節要求など記述域内に存在しないことになるが、自己言及性を無効にしていない関係等価原理にとって自己の非同一性は自己否定を意味することになるため解消しないわけにはいかない<font size=1>(*)</font>。しかし『有限は最適を含まない』といった公理のもとにある等号は常に自らの越権を足枷にしてしまうことによって過去を含めた現在の連続創造にとらわれた「歴史」を歩まなくてはならない。関係等価原理は観察可能な記述レベルにあるので、そこでの共約はシステム自体ではなく「動的な構造」である。そのため「歴史」という言葉が使用可能になり、再構成は真理追究ではなく改竄であるといった批判ができるのである。</p><p><font size=1>(*)　「間違った過去の自己」を環境へ再配置するなどといった命題は論外である。</font></p><p>　ここでその循環性を整理することができる。関係等価原理は対象認識において観察可能な相互の行為文脈を一方向的に構造化することによって対応関係を築き、それを原初段階とする。ここでいかに可能的・静的な文脈性を見出せたとしても動因の獲得はまだ意味することなく、無意味に留まる不安に怯えた幼児以前である。等号律を原理にしているため自ら脱等号を含むかもしれない能作を起こすわけにはいかない。&gt;&gt;</p><p>&gt;&gt;<a href=5.htm>次頁へ進む</a></p><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：<a href=2.htm> 2 </a>：<a href=3.htm> 3 </a>：4：<a href=5.htm> 5 </a> 】</div><div>─<br>─</div><div align=right>&copy; <a href=../../copy.htm>ayanori.jp</a><br>─<br>─<br>[△<a href=#top>PAGE TOP</a>]<br>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>[<a href=../../map.htm accesskey=0 directkey=0 nonumber>MAP</a>]</div></font></font></body></html>