<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>関係等価性について [5/5]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>&or;<br>[<a href=../index.html>研究レポート目次</a>]<br>&or;<br>[013]</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3>関係等価性について [5/5]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</div><div align=center>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：<a href=2.htm> 2 </a>：<a href=3.htm> 3 </a>：<a href=4.htm> 4 </a>：5 】</font></div><p>&gt;&gt; そこで関係等価原理は与件を待ち望むことになる。それが自らの外挿文脈と符合する場合、自己の構成素集として組み込むことになるのだが、この段階においてもまだ自律性の相をみせるには至らない。等号律にとっての基本様相は追従的であるため動因獲得の契機は『誤謬』が担わなければならない。述べるまでもなく誤謬とはアプリオリに創発される認識現象ではない。自己言及的なパラドクスは誤謬ではなく自己直知へと至る深化過程のひとつであって、それによって自他を失うわけでもなければ論理運動が抑止され停止されるわけでもない。パラドクスは何らかの抑圧構造をともなって解消すべきものとして表れる可能性はないが、それに対して『誤謬』は超克しなければならない壁として自らその姿を表す。黙視可能ならばそれは誤謬ではなく単なる思想的相違でしかない。関係等価原理は誤謬といったエントロピーを自己形式創発へと至るセカンドオーダーとすることによって、初めて動因を産み出し気付き、自律的作動を開始することになる。しかしその段階へ冗長なく至るわけではない。第一的な原理構造が誤謬を非包摂としているため、それはシステム瓦解の末期的現象として表れる自己要求ということになる。『自己形式のインスピレートによる自己内容へのアスピレート』それが等号律に依拠した第一循環である。</p><p>＊＊</p><p>　関係等価原理は他者一般との並存によって社会／環境の地平を開拓する。自／他の連動記述によって非環境的な自／他の区別を行う。そして他者の自由が自己の存続を不可能とする前-淵において自己は自己を再構成するとともに自己内容の獲得活動を開始する。これは他我を積極的に理論機構の部分に含むと同時に人類と非人類全般の区別をも可能にするため至上の理論のように思われるかもしれない。しかしそこで度外視されている項目に気付く時、我々はそれが既に始まってしまった者達から賦与された非普遍的で権利のない従属原理でしかないことを知ることになる。この原理の重要なプロセスである自己の二重否定による自己肯定とそこへと至らせる他者の行為与件に注目してみよう。誤謬─改竄を経ることによる自己確保は反照的な自己訂正でも正当化でもなく、自己の絶対化である。それは誤謬を打ち消すのではなく抹消することによって間違いをおかさないシステムを用意する。神格の創造的営為とでも形容できるこの様相は様々な欠陥を孕んでいる。絶対化によって他者からの社会的積極性を遮断してしまうだけではなく、改竄のシークエンスを終了すると同時に自律性を失い、再度非能動的系へと後退していると思われる。自己の真理の絶対化とは自／他の平衡を意味するため種差を見出すことが不可能となり、学習と自己把持、自己現前化のできない「臆病な王」として自己知らずの文脈を形成することになる。そして決定的な欠陥部分はその不安を産み出している他者の行為与件を後行する相にある。それは経験論の亜種全般に潜む根本問題になるのだが、ヘテロノミーとは他者を必要項としているにもかかわらず、他者自体の第一動因の所在を無限後退させることによって喪失し、他者を描き出すことができない原理なのである。そのため等号律を基にして作動する複数個の構成要素を任意の区画へ投げ込んだとしても、永劫に社会系の発生を観察することなどできないことであろう。つまり関係等価原理とは初めから何も始まることがない作動理論であり、神や王を待望してやまない矜持なき理論機構といえる。そしてこれが「精神」や良識、コンセンサスを用意する認識理論として古来より政治的に利用され受け継がれてきたアイデアの骨格である。</p><p align=center><font size=1>METAFORCE ICONOCLASM 2006<br>ayanori [高岡 礼典]</p><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：<a href=2.htm> 2 </a>：<a href=3.htm> 3 </a>：<a href=4.htm> 4 </a>：5 】</div><div>─<br>─</div><div align=right>&copy; <a href=../../copy.htm>ayanori.jp</a><br>─<br>─<br>[△<a href=#top>PAGE TOP</a>]<br>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>[<a href=../../map.htm accesskey=0 directkey=0 nonumber>MAP</a>]</div></font></font></body></html>