芸術性理論研究室
Metaforce Iconoclasm
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[013]

関係等価性について [1/5]
ayanori [高岡 礼典]
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 賤劣な嫉妬は他者の自由を許容することができず、支配統合の原理概念を産み出すことに辛苦、画策する。無能な似非者は不安や恐怖を払拭する学才がないために自己の虚構を有能なものから奪取する。その略奪を擬似的にも可能なものとするために社会は自己遂行的なシンメトリズムをいつからかイデオロギー化することに成功した。虚偽の開示、適合の形骸によって幻想を超えた虚飾が、それが虚飾であるがために個の本性を尊重することなく暴力的かつ不可避の重圧を加える(*)。対称化されたそれらに対して訂正や却下などあるわけがなく、無意味なメディアが心化され、本来的な『心』は無辺のどこかへ忘却させられることになった。哲学的テクストの知的消費のなさを知ればわかるようにそれによって我々は人類レベルで自己の心すら内観する力を失ってしまった。だから心の存在に気付いても心を創造・掌握する術を知らず、同程度に留まることに固執して自制なく戯言を並べ連ねようとする。そしてそこから我々は空転するシステムの周辺に産まれていくズレに対して「苦しみ」のオブラートを貼付けてしまうことになったのである。この「ズレ」は元々当然的な事実であって疑義を抱く対象にはならないもののはずである。我々はここでシステム/構造間における非連鎖性・非連動性を記述しなおすことによって安易な慰めなき苦しみの根絶を試みることにする。それは妥当な自己知を獲得可能とする道具となることだろう。

(*) 本研究室では言及不可なものに対して何らかの存在性を認めざるを得ない態度をとっている。そのため幻想ではなく虚飾という構造指向的な言葉が使用可能になる。もちろんこれは判断可能と述べているわけではない。

 一般に「苦しみ」とは産出した構成素集に対して一片の構造要素も関係されることのないまま、それが自己域への構成要求を自ら保ち続ける場合に創発されるエマージェンシーとして記述される。閉鎖的利己性が前提となる現代システム論においても作動の可能性が無効化してしまうことを無媒介に当然的に描かれることだろう。それは行為規範となる情報を他者から与えられないことを意味するため、未来を含めた反省原理による自己制御は述べるまでもないことのように思われるかもしれない。かなわぬ願いを抱き続ける者が苦悩におかされ続けることは当然の酬いのことのように思われるかもしれない。しかしここで留意しなければならない。それは通俗的に描かれる「苦しみ」とは「関係」が『等価』と同義となる似非経験論的原理によって苦が無謬化され、捏造され、与えられたファンダメンタリズムでしかないといった点である。ここでまずこのプリンシプルを「関係等価原理」と呼び、批判したい。

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