<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>視点の単一性について [2/5]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>&or;<br>[<a href=../index.html>研究レポート目次</a>]<br>&or;<br>[015]</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3>視点の単一性について [2/5]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</div><div align=center>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：2：<a href=3.htm> 3 </a>：<a href=4.htm> 4 </a>：<a href=5.htm> 5 </a> 】</font></div><p>　一般的に環境とは任意のシステムが選択していないものとして定義される。つまり関数を図で示した際にグラフの軌跡が残らない余白の部分がそれに相当する。しかし「選択していないもの」という定義は曖昧である。最適判断の不可能性から環境に価値中立性を与えたいのだろうが、あきらかに「選ばなかったもの」がある以上「選択していないもの」とはいえない。仮に捨象していたものを次の場面で採択したとしても、前場面において環境の中立性は崩れているので、やはり厳密性に欠けるだろう。またこの局面を「非選択」として形容するテクストを良く見かけるが、それも的確なタームとはいえない。本来「非」とは排除すべき異物を含意しているので「非選択」などといってしまうとシステムが予め選択可能とするエレメントから更には不可能とするものまでをもすべて把捉しているかのように読解できてしまう。それは全知を謳うも同義であり論外的である。部分としては該当するが代表させるわけにはいかないだろう。これらのような科学的視座に基づいた環境はシステムと弁証法的な関係を構築してしまうので前述した「一義的決定を入力する情報」などといった呪文を導出することになる。システムと環境が同一地(面)の上に隆起しているわけではないことを知る我々はそれが単なる裏返しではないことをも了解できるはずである。つまり「構造と環境」とはいえるが「システムと環境」という対置並列は特に意味をなさないのである。限定的にシステムは環境項を選択的に区分しているのであって「選択する／しない」などとはいえない。環境とは構造にとっての選択の否定／未然項であり、システムは越権的な判断を行っているに過ぎない。あえて心的システムから環境を定義するのならば、それは背理的に自己を外挿するスクリーンであり、システム域における有生的無<font size=1>(*)</font>に対応する。しかし有生的無も環境概念とは部分的にしか定義項を同じくしてはいない。後者の位相空間に座標軸があるのに対し、前者にそれがあれば我々は空間の学習を必要としないことであろう。</p><p><font size=1>(*)　拙論『<a href=../014/index.html>有生的無性について</a>』参照。</font></p><p>　ここでシステムと環境が未関係の関係、関係なき関係である事実を知ることによって冒頭の行為選択の場面を整理することができる。我々は視覚による映像を規範的に見せられ教化させられているわけではなく、見たものを見ることによって自ら自己を行為者へと至らせている。映画のフィルムのように認知情報を並べ重ねてみても、それらはそれぞれ完結したひとつの絵なのであって、映像自体に非自己(前後のコマ)へと自己を結びつけ文脈をつくり意味化する必然的要因など埋め込まれてはいないはずである。知覚・認知与件は認識批判することによって初めて有意味なものとなり、行為へと至るまでの参照項となるに過ぎない前素である。仮に隻眼の者がコーヒーカップへと向かったとしても環境からの行為選択は描けないことだろう。持ち手しか見えない射影xの側に座していたとしてもカップを手に取る方法は幾通りもあるだろうし、持ち手が複数個も取り付けてあるデザインカップなどに面前した場合はもはやアフォーダンスなどといった楽観は無効である。構造論理は常に前行為者に対して非整合的なために多義的ではなく無意味なものである。ここには古典的な「自由意志」を守る論拠があるが、自由は没行為も含むため何も述べていないに等しい。そこでここまで前提としてきた「一性による産出現象」についての理論的解体を行いたい。&gt;&gt;</p><p>&gt;&gt;<a href=3.htm>次頁へ進む</a></p><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：2：<a href=3.htm> 3 </a>：<a href=4.htm> 4 </a>：<a href=5.htm> 5 </a> 】</div><div>─<br>─</div><div align=right>&copy; <a href=../../copy.htm>ayanori.jp</a><br>─<br>─<br>[△<a href=#top>PAGE TOP</a>]<br>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>[<a href=../../map.htm accesskey=0 directkey=0 nonumber>MAP</a>]</div></font></font></body></html>