<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>視点の単一性について [3/5]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>&or;<br>[<a href=../index.html>研究レポート目次</a>]<br>&or;<br>[015]</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3>視点の単一性について [3/5]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</div><div align=center>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：<a href=2.htm> 2 </a>：3：<a href=4.htm> 4 </a>：<a href=5.htm> 5 </a> 】</font></div><p>&gt;&gt; これまでの論述をとおして我々は『一』を第一的な産出原理としなければならないことを消極的に証明してきた。その過程で捨象され表れた『一』は確かな個を与えうるものであったが、それを持ちうるものとしても理論立てなければ単なる叙述と変わるところがない。それ故に我々は単一性による創世場面を確認する必要があるはずである。以下に我々はその原初へと臨むことになる。そのゲネシスは西洋思想を躍進させることになったギリシャ語聖書の内外に寄り添っている。</p><p>＊</p><p>　創世記において「天と地をつくった<font size=1>[1:1]</font><font size=1>(*)</font>」神の第一場面には「闇が深淵の上にあり、神の霊が水の上を漂っていた<font size=1>[1:2]</font>」不可視無形の「地<font size=1>[1:2]</font>」があるとされる。そして『つくる』ではなく「生まれよ<font size=1>[1:3]</font>」といった他動詞・命令によって「光<font size=1>[1:3]</font>」をもうけ、それを「見た<font size=1>[1:4]</font>」ことによって昼と夜の命名記述が可能となり、論理段階を過程化することに成功する。「夕方となり、ついで朝となった<font size=1>[1:5]</font>」光と闇の区別だけならば、この時間論的な記述は不必要である。そして神は一日目の開口に「水の間に天蓋を生じさせ、水と水の間をはっきりと分つものにせよ<font size=1>[1:6]</font>」と述べる。ここで初めて神は自ら要求を遂行する。「神は天蓋をつくった<font size=1>[1:7]</font>」この天蓋によって上下が分け隔てられ天と地の設定が終了する。創世記の空間創造である第一章において神が能動的に手を動かし制作したものとは光源体と星辰とこの天蓋のみである。コーランやヘブル語聖書の神は無から有をつくる創造主であるが、ヘレニズムの洗礼・批判を通過した七十人訳の神は多くの箇所で論理的な相をみせる。我々がランプを作り、部屋の天井に取り付けるように神は太陽「大きな方の光<font size=1>[1:16]</font>」と月「小さな方の光<font size=1>[1:16]</font>」を制作し、昼と夜の空間内に灯しただけのことである。光自体については「生まれよ<font size=1>[1:3]</font>」の一声によって自動的に創発された以上の記述などない。のちの学問に期待不可能なものについての理由は不明だが「そのようになった<font size=1>[1:6,9,11,15,20,24]</font>」に過ぎないのである。時間の流れ、水や植物の誕生についても物理的な制作者などといったものは聖書に登場しない。それらは神の命令と事実描写の行間に姿を消したまま語られることなどない。天と地の構成要素となる原質料である「地<font size=1>[1:2]</font>」ですらも先行して存在していたのである。</p><p><font size=1>(*)　『七十人訳<small>ギリシャ語</small>聖書 I 創世記』　秦　剛平訳　河出書房新社2002　20〜23頁。以下括弧内は同邦訳より引用。二重鉤括弧『』は引用ではなく強調なので注意。</font></p><p>　そこでひとつ疑問が現れる。視覚認知による時間文脈の認識を経て、天地を創造する場面において唐突につくられる「天蓋」の解釈である。天と地の境界を覆い尽くす『かさ』などといった誰の眼にも写らないようなものをなぜ聖書記者達はつくり出してしまったのであろうか。特にギリシャ語訳では「天蓋」に固形[&nbsp;fixation&nbsp;]を意味する&ldquo;&nbsp;στερεωμα&nbsp;&rdquo;を当て、確かな事物として描写している。それは周到に組み立てられている第一章でただひとつあきらかに疑義を指摘されるであろう稚拙な作為のように思える。&gt;&gt;</p><p>&gt;&gt;<a href=4.htm>次頁へ進む</a></p><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：<a href=2.htm> 2 </a>：3：<a href=4.htm> 4 </a>：<a href=5.htm> 5 </a> 】</div><div>─<br>─</div><div align=right>&copy; <a href=../../copy.htm>ayanori.jp</a><br>─<br>─<br>[△<a href=#top>PAGE TOP</a>]<br>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>[<a href=../../map.htm accesskey=0 directkey=0 nonumber>MAP</a>]</div></font></font></body></html>