<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>視点の単一性について [1/5]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><strong>芸術性理論研究室<br><font size=3 color=#646f76>M<font color=#667077>e</font><font color=#677279>t</font><font color=#68757c>a</font><font color=#60777e>f</font><font color=#717b82>o</font><font color=#747e85>r</font><font color=#7a8389>c</font><font color=#80898f>e</font><font color=#889096> I</font><font color=#8e9698>c</font><font color=#959da1>o</font><font color=#9ea5a9>n</font><font color=#a7adb1>o</font><font color=#b0b6b9>c</font><font color=#b6bcbf>l</font><font color=#bdc2c5>a</font><font color=#c7c8ce>s</font><font color=#d6d9da>m</font></font></strong></div><div align=center><font size=1>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>&or;<br>[<a href=../index.html>研究レポート目次</a>]<br>&or;<br>[015]</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3>視点の単一性について [1/5]</font></div><div align=right><font color=#351923>ayanori [高岡 礼典]</font></strong><br><font size=1>─</div><div align=center>【 頁：1：<a href=2.htm> 2 </a>：<a href=3.htm> 3 </a>：<a href=4.htm> 4 </a>：<a href=5.htm> 5 </a> 】</font></div><p>　数えきれないほどのレンズが集合する複眼をもつ昆虫達はそのひとつひとつに独自の環境映像を写し、類似した風景画が千も万もレイアウトされた展覧会の真中に立ちすくむような認識世界に生きているのだろうか。単位が複眼でなくとも複数の単眼をもつ生物、たとえばハエトリグモのような節足動物は八つ(六つ)の映像与件からそれぞれ別個の判断を導出し、それらを何ら統合することなく行為規範にして獲物へと飛び掛かっているのだろうか。この問は揺るぎ得ようのない一性の絶対性を知る者には論説を必要とすることなく『否』であることが理解できるであろうが、稀に誤解を見受けることがあるので若干以下に注記しておきたい。</p><p>　仮に上述の問どおりに視覚域において対象Aの映像を何枚も羅列している生物が存在したとしたら複雑性の拡大によって可能性のパラドクスが起こり、能動的行為の一切をなくしてしまうことだろう。これは人であっても同様である。目の前に入れ立てのコーヒーに満ちたカップをひとつ置いてみる。持ち手のある射影xと持ち手のない射影yが同等の真理値をともなって、今まさにカップを手に取ろうと思っていた行為者の視覚認知域に写し出されたとした場合、その者はどのように対象へとアプローチすればよいのであろうか。一方では持ち手に指をかけることができ、もう一方ではカップ全体を包み込まなければならない。もちろん持ち手を無視して握ればよいので行為者は難なくカップを手に取ることができるように思える。しかし価値同等の並列映像を生きる者には右手で取ればよいのか、左手で取ればよいのか選択することができずに熱かったコーヒーを冷ましてしまうことになるだろう。我々が行為者である所以は構造域からの情報提供によるボトムアップにあるわけではなく、自我の一性に保証された可能性の拡大からその縮減にある。この命題は非整合的な構造論理に面前しても何かしらの対処を可能にするであろう自明性によって首肯される。これらは必然や事実に当為や価値が含まれないことの再確認であり、構造主義が度外視、語らなかったものの再剔出である。情報とは都市デザインやパワーシステムが担っている誘因ではない。また行為内容とは観察記述による事実描写が言い当てているわけでもない。情報の提供にエージェントなどといった概念は無効である。行為の可能性は認識主体によって創られ制御されなければ、情報によって身体構造が引き裂かれてしまうような空想を我々は実際に観察できてしまうことだろう。この情報概念についての誤った理解は現代システム論における環境の定義にその端を見出すことができるのでそれをまず修正しなければならない。</p><p>&gt;&gt;<a href=2.htm>次頁へ進む</a></p><div align=center><font size=1>【 頁：1：<a href=2.htm> 2 </a>：<a href=3.htm> 3 </a>：<a href=4.htm> 4 </a>：<a href=5.htm> 5 </a> 】</div><div>─<br>─</div><div align=right>&copy; <a href=../../copy.htm>ayanori.jp</a><br>─<br>─<br>[△<a href=#top>PAGE TOP</a>]<br>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>[<a href=../../map.htm accesskey=0 directkey=0 nonumber>MAP</a>]</div></font></font></body></html>